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・・・忙しい毎日の片手間に、ちょっと戦争に反対してみる。
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同じことをフィリピンで言ってみろ(@∀@)

田母神俊雄・前航空幕僚長が講演 新潟
http://sankei.jp.msn.com/region/chubu/niigata/090202/ngt0902020324004-n1.htm
>第2次世界大戦の歴史認識をめぐり、政府見解と異なる論文を発表して
更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長が1日、新潟市内の新潟ユニゾンプラザで
「日本は侵略国家であったのか」と題して講演し、約450人が詰めかけた。
>「危険人物の田母神です」と自己紹介して会場を笑わせた田母神氏は「白人の侵略に対して初めて戦ったのが日本。
日本が戦ったおかげでフィリピンやミャンマー、インド、インドネシアが独立できた」と先の戦争の意義を強調。
論文が問題視され、防衛次官らから辞任を求められた一幕を明かし、
「ここで辞めたら、自分の非を認めたことになると辞表を書かなかった。
問題をうやむやにしなかったため、国民世論がこれだけ盛り上がった」と訴えると、 会場から拍手がわいていた。講演は日本会議新潟支部が主催した。・・・

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▼日本軍がアジア諸国の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民は強くなって行った
http://www.ei-en.net/frenet/kouen5.htm

大日本帝国「南方占領地行政実施要領」=「資源をおさえよ、独立運動を防げ」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-12/2006081212_01faq_0.html
>日本政府は、戦争に際して、「新秩序」の建設や、「大東亜の解放」をさかんに宣伝しましたが、けっして、アジア諸国の独立を意図したからではありません。それをもっともよく示しているのが、開戦直前の1941年11月20日、大本営政府連絡会議がつくった「南方占領地行政実施要領」という決定です。
>これは、「方針」に「占領地ニ対シテハ差シ当リ軍政ヲ実施シ治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス」として、対英米戦争遂行の大前提とされた石油やゴムなどの南方資源の獲得と、日本軍の食料等については現地調達を原則にしています。
>そして、この占領が民衆に重い負担となることを予想し、占領にあたっては、「民生ニ及ボサザルヲ得ザル重圧ハ之ヲ忍バシメ」と、民衆に反抗せず我慢するように宣伝することを説いています。
さらに、独立運動にたいしては、「其ノ独立運動ノ如キハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス」と、行き過ぎて民衆が独立運動にはしらないように念押しをしています。
>実際はどうだったでしょう。
>敗色が明らかになった日本は、かいらい政府を通じて戦争動員するためフィリピン、ビルマに「独立」を約束しますが、現在のマレーシアとインドネシアにはみせかけの「独立」さえ許さず、日本領土に編入、過酷な軍政をしきました。
インドネシアにはいまも「ロームシャ(労務者)」「ヘイホ(兵補=日本軍の補助兵力)」という言葉があり、泰緬鉄道(タイ・ミャンマー間)建設などに連行され強制労働させられたロームシャの数だけで約30万人と推定されています。「慰安婦」にされた女性たちもいました。・・・

▼癒えない比の戦争犠牲者遺族の傷  遺骨収集めぐり日本遺族会職員と会合
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/729.html
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200708130023211
>太平洋戦争中、旧日本兵約7万9000人が戦死したビサヤ地方レイテ島で、日本遺族会古賀誠会長)が7月末から10日間、地元住民を集めた会合を開き、旧日本兵の未帰還遺骨に関する情報提供を呼び掛けた。会合には、元抗日ゲリラの古老や旧日本軍に肉親を殺された比人遺族も出席し、「祖父母らを虐殺された」「日本兵に連れ去られた兄はどこにいるのか」と同遺族会職員に詰め寄る場面もあった。地元住民の消えゆく記憶から、遺骨の所在情報を掘り起こそうとする日本側の取り組み。それは、比側遺族らにとって、戦後62年を経ても癒えない心の傷をうずかせる場となった。 ・・・

ビルマ
http://www.kishida.biz/column/2007/20071002.html
ビルマはイギリスの植民地だったが、戦前から独立運動の機運は高まっていた。学生運動を組織しイギリスの支配に抵抗したのがアウンサン・スーチーの父アウンサンだった。アウンサンはイギリス当局の弾圧にあい、日本に亡命した。アウンサンは日本軍とともにビルマに帰り、日本軍の力を背景にビルマ独立軍の指導者となった。ところが、途中で日本軍に失望し、一転して反日運動に徹することになり、連合国軍に加わって日本の支配に抵抗した。戦後、独立に関してイギリスとの交渉をまとめ協定を結んだが、実施前に保守派に暗殺されてしまう。その後はアウンサンの同志が完全独立を果たすのだが、少数民族問題やクーデターで10年以上混乱することになる。その中で軍政が力をつけビルマ社会主義をめざして中国との関係を大切にすると同時に非同盟中立を守ってきた。・・・

▼『日本軍に棄てられた少女たち
インドネシア慰安婦悲話』
プラムディヤ・アナンタ・トゥール著/山田道隆訳
2800円+税/四六判、280ページ
http://www.commonsonline.co.jp/pramoedya.htm
▼世界の教科書 インドネシア
>●労働者の搾取
>主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。多くの「労務者」は現場で死んだ。その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。
>●インドネシアが独立した背景
>抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。
(「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社)
▼ジャワからシンガポール経由で連行されてきたインドネシアのロウムシャ
E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社より
>「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。
・・・
女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。

▼ジャワハルラル・ネルー(独立インド初代首相)
>日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義グループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果をまずさいしょになめたのは朝鮮であった。・・・日本はその帝国政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった、日本はヴェールでいつわる用意もせずに、大っぴらで漁りまわった。
・・・
日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史の中でもまことにいたましい、暗黒な一章だ。
ジャワハルラル・ネルー『父が子に語る世界歴史・』みすず書房、1959年)

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」