・・・コメント欄で話題になっている、ファシズム時代の歌『海行かば』の解釈について。
荒らしカキコの主が某古文サイトからコピペしてきた
>海を行くなら水につかる屍、山を行くなら草むす屍となっても、大君のお側でこそ死のう、わが身を顧みるようなまねはするまい
・・・という解釈。
この解釈には、実は重大な誤りがある。
それはどこでしょう?
ヒント。
いくら「つくる会」教科書を調べても、載ってません。(@∀@)
彼らが認めたくない事実が、この歌に示されているからです。
・・・日本国憲法草案を作った女の子、ベアテ・シロタ・ゴードンに萌え、とか言ってみるテスト。
日本国憲法については、『TVブロス』巻末の超硬派コラム、爆笑問題・太田光の「天下御免の向こう見ず」が、最近なかなかイカした言及をしていた。「日本国憲法の草案は確かにアメリカによるものだが、それは日本国民の意志でもあった。当時の日本国民の『戦争はもうこりごりだ』という感情と、アメリカの憲法草案起草者たちの考えには、1ミリのズレもなかった。だから日本国民は日本国憲法を受け入れた。イラクはそうではない。だからいまだに不安定なままだ。」
(そもさん)
・・・「東京裁判は勝者による裁判だ。日本は無罪だ!」という奴を、
一撃でへこます言葉とは?
(せっぱ)
・・・「それをアメリカに言ってこい」。
・・・世の中には「この戦争のこの局面で、こちらの側がこう戦っていれば歴史は変わっていた」という類の、「仮想戦記」と呼ばれるエンターテインメントがある。「中国と日本がもし戦えば」「北朝鮮と日本がもし戦えば」というのものもそうだ。映画・小説・マンガ・アニメなどで、この手の作品は数多くある。
だが、ここが不思議なんだが、なぜ「仮想不戦記」というのがないんだろう。「この外交交渉のこの局面で、こちらの側がこうしていれば戦争は起こらなかった」なんてのが。やりようによっては非常にスリリングなものが出来るはずなんだが。
・・・以前にもちょろっと紹介した、松岡圭祐の小説『トランス・オブ・ウォー』は、一介の心理学者である女性が、事実上たった一人で、現在のイラクにおける泥沼の武力紛争を食い止めようとする話である。その成否やプロセスについては実際に読んでみてほしいが、正直、なかなかに面白かった。これなどはまさに「仮想不戦記」の一種であるともいえる。
「戦記物」に対置する、「不戦記物」なんてのもいいな。私としてはタイやフィンランドあたりの外交史なんか、小説になると非常に面白いと思うんだけど。
・・・「つくる会」教科書、鎌倉市で不採択。
学校長および父母による「教科用図書採択検討委員会」の報告書では、各社教科書の中で「つくる会」は最低評価。現場教職員による学校票での支持票、ゼロ。
フェアウェル。(@∀@)