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▼『南京大虐殺なかった派』による「騙り」「なりすまし」の実例 

【Q】このページはなんですか?
【A】このブログのコメント欄に書き込まれた、
南京大虐殺はなかった」という人々による、「騙り」「なりすまし」「捏造」の証拠です。



 たとえば、私(九郎政宗はてなid:claw)がコメント欄に発言を行った場合、投稿者欄にある私の名前(claw)は、必ずブログのトップページにリンクされます。
 私の名前を騙るニセモノが書き込んだ場合には、コメント欄における投稿者名(claw)はどこにもリンクしていません。
これによって本物とニセモノの判別をすることができます。
 また、「騙り」「なりすまし」による投稿は、それまでの文体や内容が本人の発言とは明らかに異なっていたりすることでも、容易に見破ることができます。



 そうしてチェックしてみると、いやはや、大量の捏造カキコが書き込まれているわけです。
発言内容から、明らかにこれは「南京大虐殺はなかった」という人々によるものとわかります。
この人たちは、ネット上で他人の名前の「騙り」「なりすまし」を行うことなど、
なんとも思っていない
のでしょうねえ。
さすがは南京大虐殺という歴史の事実を「なかった」と言い張る人たちだけのことはあります。
ま、今後もその調子で(@∀@)「南京大虐殺なかった」派の倫理的水準を
誰の目にも明らかにしてくれることを期待しています。




▼2004年10月13日のブログでの「騙り」「なりすまし」と捏造 
http://d.hatena.ne.jp/claw/20041013

# claw 『Raping of Nanking(南京強姦)となっているのが普通であり、Massacre(大虐殺)という単語を使っている例はまず見当たらない」(渡辺昇一著「萬犬虚に吠える」173ページ)という。
 ともあれ左記の数字が、12月13日(占領日)から2月9日までの約2ヶ月間にわたる南京における日本軍非行を記録した国際委員会の総トータルである。

注(1) 郭沫若の「抗日戦回顧録」によると、国民党政治部は陳誠を部長に、周恩来、黄蒞翔を副部長とし、その下に3つの庁をおいて、抗日宣伝、情報収集等を行った。康沢第2部長の別動隊は、南京で活躍し、多数の資料を集めたと記録されている。
注(2) ティンパーレーの「戦争とは何か」については「米英のマスコミほとんど取り上げず」を参照。
注(3) 石射氏に関する記述は谷口厳著「藤原彰氏の「南京大虐殺」にみる虐殺派の虚構づくり」(「ゼンボー」61・2月号)を参照した。』

# claw 『
 武藤参謀副長(東京裁判で絞首刑)公平高級参謀、中山情報参謀、岡田通訳官の四人は、蘇州の軍司令部を午前3時に出発し、深夜の句容街道を中山門外に向い、午前11時40分ころ目的地に到着、かたずをのんで敵軍使の来るのを待った。
 12時が5分過ぎても、10分過ぎても、ついに中国側軍使は姿を見せなかった。
 結果的には、徹底抗戦を叫びながら、唐生智は整然たる撤退作戦の指導もできず、敗残兵を城内に残したまま、12日夕刻、「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と命じて、自分ひとり、ひそかに揚子江北岸に遁走したのである。
 その無責任と劣悪な統制能力が糾弾され、唐生智は12月18日軍法会議にかけられ、19日銃殺刑に処せられたと伝えられる(「朝日新聞」12月20日)。
 これに対して、降伏勧告文を漢訳し、当日中山門外で待機した岡田通訳官は、この時の中国側の態度について次のように慨嘆する。
 
 「ただね、何故、降伏勧告した時、中国軍はそれを受け入れなかったのですか。もう負けははっきりしています。あとは降伏するだけです。国家全体の降伏ではありませんし、南京だけ降伏していい訳です。日露戦争の時旅順攻略でステッセルが乃木大将に降伏してますね、あれと同じです。旅順陥落で日露戦争は終わった訳ではなく、その後も続きます。南京の場合も、南京の一局面だけ降伏してもいいわけですよ。
 私は正直いって、中国びいきです。満州国をつくったのも賛成じゃない。日支事変も日本がやり過ぎたところがあると思っています。しかし、南京の降伏拒否は中国が悪い。しかも、結局、最高司令官の唐生智は逃げますからね。あれは中国の悪いところで、義和団の時も同じで、清の責任者は最後になると逃げています。会社がつぶれる時と同じで、責任者がいなければ会社は混乱して、社員は物を持って逃げますよ。
 降伏拒否がなければ捕虜の問題もなかったと思います。国際法上、とよくいいますが、国際法上からいえば中国のやり方はまずいと思います」(「正論」61・6月号・阿羅健一著『日本人の見た南京陥落』より)。
 
 まさしく岡田氏のいうとおりである。
 20万ちかい市民をおきざりにして、平和的交渉に応ずることなく、蒋介石総統ら政府も軍首脳部も全員逃亡し、馬市長も逃げだし、最後に残った唐将軍も降伏を拒否して遁走してしまったのである。市街は掠奪勝手次第の大混乱におちいったのは当然である。

 統率者を失い、地の利にうとい敗残の将兵たちがパニックに陥り、崩壊していった。
 NYタイムズのダーディン記者の言う通り、南京事件の責任の大半は、このような無責任極まる蒋・唐・馬ら中国側指導者にあるといっても過言ではない。かれはそのレポートの中でこう慨嘆している。

 「確かに、蒋将軍はあのような大混乱の起こるのを許すべきではなかった。
 確かに唐将軍も自分が最後までやり通すことができず、とどのつまりは不首尾に終わった。犠牲の道にふみ出したことは強く非難さるべきである。
 唐は、その日いくつかの小部隊の援護で、日本軍が市内深く侵入するのを支えながら、総退却の配置をすることによって、状況を救う何らかの努力をしてもよかったのだ。そんなことが行われた様子もなく、いずれにせよ状況は改善されなかった。唐は自分の幕僚の多くのメンバーにさえも知らせず、指揮官なしに軍を置き去りにしたことは、全面的破壊の合図となった」(AⅡ295ページ)。
 中共政府は、のちにこのような国府要人らの南京《逃亡》を「冷静さを失い、理性を失い、人心を動揺させ、外国人の嘲笑をあびる失態を演じた」と酷評している。当然の評価というべきであろう。

                                                                                                                                                                • 』 (2004/10/13 02:47)

# claw 『
中国軍による焼き払いの狂宴 … 中国軍による残虐行為
 ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、断末魔の南京とその周辺における“焼き払いの狂宴”を次のようにレポートしている。
 
 「日本軍が句容をこえて(12月7日)、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っているものであった。
 中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
 村ぐるみ焼き払われたのである。
 中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしているのである。
 中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。
 これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう。
 中国軍部は、南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだ、といつも説明してきた。
 城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だというのだ。
 この目的のために、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた。
 「中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の“もったいぶったジェスチュア”であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。
 それは、中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであり、極端な《焦土化》政策の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった・・・・」(AII287ページ)。
 
 金陵大学のベイツ教授はこう述べている。

 「南京の城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切であったかなかったかわれわれの決定しうることではない」(AII212ページ)。
 南京陥落を前にして、中国軍が戦術として用いた「空室清野作戦」、すなわち公共建築物や公邸、私邸などの焼き払いの狂宴がいかにものすごいものであったか、この一文でも理解できよう。
 「南京攻略に先だって何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害」よりもさらに甚大な破壊と、放火と掠奪が行われたというのである。しかも、東京裁判ではこれらの焼き払いと掠奪の狂宴は、すべて日本軍の仕業に置き換えられ、《南京における日本軍の暴虐事件》として告発されているのである。

                                                                                                                                                              • -

中国兵による掠奪 … 掠奪を行ったのは中国軍
 今の中国共産党軍とはちがって、昔のシナ(中国)には「良鉄は釘にならず、良民は兵にならず」ということわざがある。
 つまり間違っても兵士にはなるな、兵士になるようなものはろくでなしだ、真面目な人間は決して兵士にはならない、という意味である。
 古来中国では兵士は良民の間に蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われたのである。
 なぜかというと、戦争に勝てば勝ったで、負ければ負けたで、「掠奪」するからである。
 古来中国においては、戦争と掠奪はつきものであり、掠奪が麾下将兵の報酬であり、役得であった。
 また、それによって徴兵したことが史実に出ている。
 司馬遼太郎氏の「項羽と劉邦」にこんな話がある。
 
 劉邦軍は、士卒の士気の点で項羽軍に劣っていた。
 (中略)それは劉邦から軍政面を一任されている粛何がきわめて厳格で、占領地で掠奪することを禁じていたからである。
 歴世、この大陸にあっては、兵士と盗賊との区別がつきがたく、戦って勝てば掠奪し、掠奪を期待することで士気も上がるという習性があったが、粛何はこれをきらった。(上掲書(上)273ページ)
 
 つまり、兵士と掠奪の関係は「三国志」時代から、歴世、この国の習性なのである。
 犬飼總一郎氏(第16師団通信班長・陸軍中尉)は、南京に向かう追撃戦で、自分は常に第一線にあって、10月25日の無錫、29日の常州に一番乗りを果たしたが、無錫も常州も中国兵による掠奪の跡歴然たるものをこの目で見た。
 いかにそれがもの凄いものか、全く想像外であった、と語っている(筆者への書簡)。
 また、第19旅団長草場辰巳少将は、北支作戦の時、隆平県城の城壁の上から、10月13日未明、はからずも敗残兵による掠奪の場面を見たと言っている。
 すなわち「隆平県城になだれこんだ敗残兵は、まず住民から衣類を奪って便衣となり、次に食糧を奪い、財宝を奪い、明け方を待って逃げ出す算段で、城壁がすでに日本軍によって占領されているのも知らず、城内は敗残兵による掠奪、暴行殺傷等で阿鼻叫喚のちまたと化し、日本兵はただしばし呆気にとられて、この地獄図を城壁から眺めていた」というのである。
 前述のダーディン記者も、南京における中国軍の掠奪について次のように述べている。
 「土曜日(11日)には、中国軍による市内の商店に対する掠奪が拡がっていた。
 住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。
 掠奪の目的が食糧と補給物資の獲得にあることは明らかであった。
 南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった」
 「(12日)夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。
 中国軍は完全に潰滅した。
 中国軍部隊は指揮官もなく、何が起こったか知らなかったが、ただわかっているのは、戦いが終わり、何とか生きのびねばならぬということだった」(AII290ページ)
 南京に残留していた某第三国人の日記を「東京日々新聞」(現毎日新聞)が掲載しているが、それにはこう書いてある。
 「12月12日、敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく恐怖におちいる」(昭和12・12・20)。
 岡田通訳官は、掠奪について次のように証言している。
 「城内の店は空き家になっていまして、中国兵が逃げるとき掠奪したのか、日本兵が入ってから掠奪したのか、掠奪の跡がありました。日本兵は食べ物は掠奪したと思いますが、その他は中国兵がやったようです。
 昭和13(1938)年3月に維新政府が出来ると、私も南京に行きましたが、泥棒市にはたくさんの豪華なジュウタンや骨董品があり、これらは、その時掠奪したものだと思います。
 この時私も居を構えるためジュウタンを買いました」(「正論」〈昭和61・6〉阿羅健一著『日本人の見た南京陥落』)。
 筆者も昭和13(1938)年8月南京に行き、この泥棒市の盛況?を見ている。
 男女の衣類から靴、食器類、缶詰やワイン類はもとより豪華なシャンデリアやピアノまで、延々と、鼓楼から北西一帯に泥棒市がひろがり、ここのみ異様な雰囲気であったことを覚えている。
 読者に銘記していただきたいことは“焼き払いの狂宴”にしても、このような中国人や中国軍による“掠奪”にしても、戦後はすべて日本軍のしわざにおきかえられていることである。
 勝者が敗者をさばいた東京裁判が、牽強付会に悪事を何もかも日本軍の仕業とし、えん罪を負わされたのはやむを得なかったかも知れない。だが残念なことは、心ない日本の学者やマスメディアが、いまだに東京裁判史観の呪縛にとらわれて、中国軍は善であり、日本軍のみが悪であった

                                                                                                                                                                • 』 (2004/10/13 02:48)

# claw 『
便衣兵戦時国際法の違反 … ゲリラ行為の違法性
 支那事変で日本軍をもっとも悩ましたのは、前記の“清野作戦”と“便衣隊作戦”である。
 便衣隊作戦というのは、正規の軍服を着用した兵隊が時と場合によって百姓服や常民服に着替えて、敵の油断をみはからい、隠し持った武器で敵を奇襲する戦術のことである。
 なかには最初から常民服で、いわゆるゲリラ戦をやる者もいる。
 当時中国の排日、抗日教育は徹底しており、婦人や子供までが、夜間信号筒をあげて日本軍の所在を知らせたり、老婆が買い物かごの中に手榴弾を秘匿して運搬したり、百姓姿の便衣兵に夜襲されたり・・・・、このため日本軍は多くの思わぬ犠牲を強いられた。
 わが軍がいかに便衣兵に悩まされたかについて、松井軍司令官は「支那事変日誌抜粋」の中で次のように述べている。(本文カタカナ)。
 「敗走せる支那兵がその武器を棄て所謂「便衣兵」となり、執拗なる抵抗を試むるもの尠からざりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明らかにすること難く、自然一般良民に累を及ぼすもの尠からざりしを認む。」(田中正明著「松井石根大将の陣中日誌」71ページ)。
 なお、松井大将は宣誓口述書の中でも次のように述べている。

 「支那軍は退却に際しては所謂「清野戦術」を採り、所在の重要交通機関及び建築物の破壊焼却を行わしめたるのみならず、一部将校は所謂「便衣兵」となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少なからかず、付近の人民も亦あるいは電線を切断し、あるいは烽火を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我軍に幾多の危難を与へたり。」(前掲書207ページ)。

 いうまでなくこのような便衣兵は、陸戦法規の違反である。
 日本軍はしばしばこの違反行為にたいし警告を発したが、馬耳東風で、中国軍は一向に改めようとしない。
 このような便衣隊戦術は、常民と兵隊との区別がつかないため、自然罪もない常民に戦禍が及ぶことは目に見えており、そのため陸戦法規はこれを厳禁しているのである。
 中学・高校の歴史教科書には「武器をすてた兵を殺害した」といって、いかにも人道にもおとる行為のごとく記述しているが、武器を捨て、常民姿になったからといって、それで無罪放免かというと、戦争とはそんな甘いものではない。今の今まで戦っていた便衣兵が、武器を捨てたからといって、捕虜のあつかいを受け、命は助かるかというと、そうはいかない。
 戦時国際法によると、便衣兵は交戦資格を有しないものとされている。
 交戦資格を有するものは、原則として、正規の軍人ならびに正規の軍人の指揮する軍艦又は軍用機となっている。
 1907年の陸戦法規によると、(民兵または義勇兵でも)次の条件をそなえる場合のみ、交戦資格を有するものとしている。
 
 (1)部下のために責任を負う統率者(指揮官)があること。
 (2)遠方から認識することのできる固有の特殊標章を有すること。
 (3)公然と兵器を携行していること。
 (4)戦争の法規および慣例に従って行動していること。

 ―――こうした条件からいっても、便衣兵または便衣隊は「交戦資格」を有するものではない。
 
 「交戦資格を有しないものが軍事行動に従事する場合には、敵に捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられず、戦時重犯罪人としての処罰を受けなければいけない」(以上は田畑茂二郎著「新訂国際法」(下)203ページより)。
 
 さらに、我が国の国際法の権威である信夫淳平博士は次のごとく述べている。
 「非交戦者の行為としては、その資格なきになおかつ敵対行為を敢てするが如き、いづれも戦時重罪犯の下に、死刑、もしくは死刑に近き重罪に処せらるるのが戦時公法の認むる一般の慣例である」(信夫淳平著「上海戦と国際法」125ページ)。
 「便衣隊」を論ずる場合、我々はまずこのような戦時国際法の概念を頭に入れておく必要がある。
 われわれはフランスのレジスタンス運動者がドイツのゲシュタポに発見され次第、裁判もかけないでその場で処刑される場面をいくどもニュース映画で見ている。

                                                                                                                                                                • 』 (2004/10/13 02:50)




# claw 『
便衣兵数千が難民区に遁入 … 違法行為を行った中国兵
 南京虐殺デマゴギーの一つに難民区からの便衣隊の摘出問題がある。
 そもそもこのような問題が生起したのは、便衣戦術をとった当時の国民党軍と、難民区を管理した国際委員会の責任であって、上海の南市における難民区(ジャキーノ・ゾーン)のように、管理者が厳然と、兵器を取り上げ、常民と区別して名簿を作成するなり、あるいは一所に拘置しておけば問題はなかったのである。
 南京陥落寸前、中国軍が便衣に着替えて、難民区に潜入するさまをダーディン記者は次のように報道している。
 
 「日曜日(12月12日)の正午(中略)、侵略軍(日本軍)が西門(水西門)付近から城壁をよじのぼると(筆者〈注〉第6師団三明部隊の一番乗り)、中国軍の崩壊が始まった。第八八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。夕方までには大軍が下関(シャーカン)の方へあふれ出たが、下関門(把江門)はまだ中国軍の手中にあった(筆者〈注〉このとき把江門でパニック状態が起き、人なだれとなって多くの中国人が死傷している)。
 将校たちは(この)状況に対処することもしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽と言ってもよいほどの光景であった。多くの兵士は下関(シャーカン)へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に入り込んで便衣に着替えてくる者もあった。中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた・・・・」(AII282ページ)
 
 「日曜日の夕方には中国軍は安全区全体にひろがり、多数の者が、一般市民から便衣を盗んだり、頼んでゆずってもらったりした。
 “一般人”が一人もいない時は、それでも兵士達は軍服を脱いで下着一枚になっていた。
 軍服とともに武器も遺棄されて、街は小銃・手榴弾・剣・背のう・軍服・軍靴・ヘルメットでうずまるほどであった。
 下関付近で遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった。
 交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車・荷馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場のように積み重ねてあった。」
 「日曜日(13日)いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部および西北地区で日本軍と戦闘を続けた。しかし袋のネズミとなった中国軍の大部分はもう闘う気力もなかった。何千という兵士が外国人の安全区委員会に出頭し、武器を捨てた。委員会はその時は日本軍が捕虜を寛大に扱うだろうと思ったので、降伏してくるものを受け入れるほかなかった。中国軍の多くの集団が個々の外国人に身をまかせ、子供のように庇護をもとめた。」(AII290〜1ページ)。
 
 米南京副領事館エスピー氏は本国政府に次のように報告している。
 
 「・・・・市民の大部分は南京国際委員会の計画設定するいわゆる『安全地帯』に避難しおり、相当数の支那兵を巧みに捕捉するはずなりしが比較的少数なりしなり、実際に残留せる支那兵の数は不明なれども、数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、常民に混り市内のどこか都合良き処に隠れたるに相違なきなり」。
 また氏の東京裁判への提出書類は次の通りである。
 「・・・・ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に掠奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑なく彼らにより人および財産に対する暴行・掠奪が行われたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いしなるべし。
 また退却する軍人及び常民にても、計画的ならざる掠奪をなせしこと明らかなり。
 すべての公の施設の機能停止による市役所の完全なる逼塞(ひっそく)と支那人と大部分の支那住民の退却とにより市に発生したる完全なる混乱と無秩序とは、市をいかなる不法行為をも行い得らるる場所となし終われるなり。
 これがため残留せる住民には、日本人来たれば待望の秩序と統制との回復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえもありたることは想像せらるるところなり。」(法廷証第328号=検察番号1906号中の一部を弁護人が朗読したもの=速記録210号)
 
 私が前に述べたるごとく、また米副領事の報告ごとく、数千の敗残兵が安全区内に遁入し、身を隠したが、日本軍がこれを14日と16日の2回にわたって摘出し処断している。
 本格的に便衣兵の摘出をはじめたのは、12月24日以降のことである。
 この時は憲兵が、治安維持会の中国人立ち会いのもとに行われ、約2千人が摘出された。
 が、この約2千人はすべて外交部に送られ捕虜としての待遇をうけている(佐々木到一少将回顧録)。
 この便衣兵摘出事件が、安全区における最大のトラブルであったといってよかろう。
 「東京日々新聞」は、12月20日の夕刊に、〔18日志村特派員発〕として、戦前から南京にとどまっていた某外国人(特に匿名)の日誌を抜粋して、外人の見た戦慄の南京最後の模様を報道している。
 それによると、7日早朝、蒋委員長が飛行機で南京を脱出したが、「この蒋委員長の都落ちが伝わるや、全市民は家財を抱えて難民区へなだれ込んだ」とある。つまり市民は一人残らず難民区へ逃避したとみてよかろう。
 また8日には「馬南京市長らもまた市民を置き去りにして逃げだし、郊外の支那軍は民家に火を放ち、南京付近は四方に炎々たる火焔起こり、市内また火災あり、逃げ迷ふ市民の姿はこの世のものとは思われぬ」と記述している。支那兵特有の敗走時の掠奪はそのころ極限に達したことは容易に想像できる。
 私がさきに述べたように、電信、電話はもとより、電気も水道も途絶え、市内が掠奪・放火の無政府状態に陥ったのはこの頃からである。
 日誌にはこうある。
 
 「12日、城外の支那軍総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は、学生抗日軍を残して市内に雪崩れ込み、唐生智は激怒して彼が指揮する36師に命じ、これら敗残兵を片っ端から銃殺するも、大勢如何ともする能はず、唐生智もまた憲兵と共に夜8時ころ何処ともなく落ちのぶ。敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく、恐怖に陥る。電灯は消え、月光淡く、この世の末すと疑はる。電話全く不通となる・・・・」(「東京日々新聞」12・20)
 
 これを裏付けるように、南京に入城した日本兵は正規兵が便衣に着替えるため脱ぎ捨てた軍衣袴や軍靴、軍帽、兵器類等のおびただしい散乱を見ている。
 16日午後、中山門から郵便車で入城した佐々木元勝氏は、城内で見た情景を次のように述べている。
 
 「本通り、軍政部から海軍部にかけ数町の間は、真に驚くべき阿鼻叫喚の跡と思われる。死体はすでに片ずけられたのか少ないが、小銃や鉄兜や衣服が狼藉を極め、ここで一、二万の支那兵が掃射されたかと思われるばかりである。これは支那兵が軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えたものらしくあった」(佐々木元勝著「野戦郵便旗」216ページ)。
 軍司令部付岡田尚通訳官は、13日、入城時の南京城内の様子を次のごとく語る。
  「市内じゅう軍服、ゲートル、帽子が散乱していました。これはすごい数で一番目に付きました。中国兵が軍服を脱いで市民に紛れ込んだのです。中国兵にしてみれば、軍服を着ていると日本軍にやられますから当然とおもいます」
 松井大将は『陣中日誌』の中で「難民区に遁入せる便衣兵数千・・・・・・」と述べている。
 とにかくこの数千とみられる便衣兵を、国際委員会は何らのチェック手段も取らず、無条件で潜入せしめたのである。

                                                                                                                                                                • 』 (2004/10/13 02:51)

# claw 『
後送された傷病兵と埋葬者 … 南京と上海戦闘地域の関係
 上海戦での戦闘は、日中双方とも死闘に次ぐ死闘で、多くの戦死傷者を出したが、中国の場合その負傷者は、主として南京および蕪湖方面に後送された。
 その南京に後送された傷病者の数はいったいどの位になるかについて、畝本正巳氏は「証言による「南京戦史」」の中で次のようにくわしく述べている。
 〈11月25日の中支那方面軍特務部長の中央に対する報告によると、
 
 「上海の支那軍83個師団のうち、その半数は損耗しており、その実戦力は約40万内外」といわれる。
 上海の激戦地に逐次増援して83個師団の大兵力となった中国軍は、約4ヶ月間に累計10万人の死傷者を出したことになる。
 これらの死者は現地において処置され、負傷者は逐次後送されたのであろうが、後送された負傷兵の数はどのくらいになるであろうか。
 「当時における日本軍の戦死者と負傷者の比率からみて、少なくとも15万以上の負傷者が南京に後送された計算になり、3ヶ月に及んでいるので、1ヶ月5万人、1日平均1700人が連日南京に後送されたことになる〉 
 これらの負傷者は、一時南京にとどまり、逐次重傷者は船で漢口へ、あるいは陸路江北に移送されたものと思われる。
 しかし南京の病院で陣没して城内の墓地に埋葬されたものも相当数あるはずと推測している。
 なお、第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述べている。
 
 「南京は11月下旬より、遠く南方戦線の戦死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室に充てられ、全市医薬の香が、びまんしたる状態なり。これに生ぜし死者もまたすくなからず」

 全市に医薬の香りがびまんしたという表現は、前述の「東京日々新聞(現毎日新聞)」がスクープした某外人の日記の中にも「25日(11月)戦死傷者の南京後送で、移転後の政府機関はもちろん、私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した・・・・」、とおり、すでに11月25日ころから南京全市が兵站病院の観を呈した様子がうかがえるのである。
 中沢参謀はさらにこう言っている。
 
 「入城時、外交部の建物は、大兵站(へいたん)病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁(よう)し、重傷者多し。日々、3、40名落命しつつありたり。
これらの処理を、運搬具乏しき当時如何にせしや疑問にして、付近に埋葬せられたること確実なり」(東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬死体の中には、当然これらの死体が相当数あったはず)。
 もし1日平均3、40名死亡したとすれば、その他、鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央医院などの兵站病院を合計すれば、平均1日100名内外の死亡者を生じたものと考えられる。
 上海の激戦は8月下旬以来約3ヶ月間続いたから、上記の計算を準用すると、約9000人が南京において陣没したものと推測される。
 なお南京戦における中国軍の戦死者の数をダーディン記者は3万3000と推測している―――これらも紅卍字会によって埋葬されたわけだが、これらの城内墓地の埋葬死体数を、すべて日本軍による《虐殺死体数》であると東京裁判では判決しており、中国側も、日本の虐殺派の人々もそのように主張している。しかしこれはとんでもない錯誤であり、虐殺数を増すための作為的な虚構であるといわなければならない。
 以上が陥落直前までの南京の実情である。いわば断末魔の南京の姿であって、南京事件はこのような状況の中に日本軍が突入したことをまず念頭におく必要があろう。
 くりかえすがようであるが、南京の掠奪と放火および若干の殺害は、すでに日本軍占領以前の時期、完全アナーキーの状態の中で、実在していたのである。しかも埋葬された死体数イコール日本軍による虐殺数として計算するがごとき、悪意に満ちた、作為的レポートを、われわれは鵜呑みにする訳にはいかないことを明記しておきたい。

                                                                                                                                                              • -

南京戦における日本軍、中国軍の編成 
 まず、南京攻略戦に参加した日本軍の編成から見てみよう。
 南京攻略を行った日本軍は、松井石根(まついいわね)陸軍大将を軍司令官とする中支那方面軍であるが、その麾下(きか)に上海派遣軍と第10軍があった。次の通りである。

 上海派遣軍(軍司令官 朝香宮中将)
  第16師団(京都)、第9師団(金沢)、第11師団 天谷支隊(善通寺)、第13師団(高田)山田支隊、第3師団(名古屋)の一部、  第101師団(東京)の一部

 第10軍(軍司令官 柳川中将)
  第6師団(熊本)、第114師団(宇都宮)、第18師団の一部(国崎支隊)

 (以上別表・編成表参照)
 総兵力は約10万と号していたが、上海戦での消耗はげしく、実際に南京戦に参加した兵力は7〜8万程度とみられている。
 南京を攻略した司令部および編成は次の通りである。

司令部の編成(昭和12年12月)

支那方面軍 上海派遣軍 第10軍
司令官 大 将 松井石根 (9) 軍司令官 中将  朝香宮鳩彦王 (20) 中将  柳川平助 (12)
参謀長 少 将 塚田攻 (19) 参謀長 少将  飯沼 守 (21) 少将  田辺盛武 (22)
参謀副官 歩大佐 武藤章 (25) 参謀副長 歩兵大佐 上村 利通 (22)
参 謀 騎大佐 西原一策 (25)兼
歩中佐 芳村正義 (28)兼
歩中佐 長 勇 (28)兼
歩中佐 寺垣 忠雄 (28)兼
砲中佐 公平 匡武 (31)
航中佐 光成 省三 (31)
騎少佐 本郷 忠夫 (32)兼
航少佐 中山 寧人 (33)
工少佐 二宮 義清 (34)
工少佐 河村 弁治 (34)
砲少佐 吉川  猛 (35)

国際法顧問
法学博士 斉藤 良衛 第1課 騎大佐 西原 一策 (25)
歩中佐 芳村 正義 (28)
航中佐 北島 熊雄 (29)
航中佐 川上 清志 (30)
砲中佐 大坪 一馬 (30)
歩少佐 二神  力 (34)
海大佐 松田 千秋 
海少佐 青木  武   航大佐 藤本 鉄熊 (26)
歩中佐 寺田 雅雄 (29)
砲少佐 吉永  朴 (31)
工少佐 池谷 半二郎(33)
歩少佐 山崎 正男 (33)
航少佐 大坂 順次 (35)
歩大尉 仙頭 俊三 (36)
第2課 歩中佐 長  勇  (28)
騎少佐 本郷 忠夫 (32)
歩少佐 御厨 正幸 (33)
歩大尉 大西 一  (36)
海少佐 根木 純一 歩大佐 井上  靖 (26)
歩中佐 岡田 重一 (31)
歩少佐 堂脇 光雄 (34)
砲大尉 清水 武男 (36)
海少佐 根本 純一
第3課 歩中佐 寺垣 忠雄 (28)
歩少佐 櫛田 正夫 (35)
歩少佐 榊原 主計 (35)
歩少佐 北野 兵蔵 (35)
砲大尉 佐々木 克巳(38)
海中佐 長岡 博吉 工大佐 谷田  勇 (27)
輜中佐 小畑 信良 (30)
歩大尉 金子 倫介 (39)
海少佐 長岡 博吉
管理部長 歩中佐 川勝 郁郎 (24)
兵器部長 少 将 福原 豊三 (20)
軍医部長 医少将 笹井 秀恕
経理部長 主少将 根岸 莞爾
獣医部長 獣少将 橋本 庄太郎
法務部長 高等三 塚本 浩次 高等二 小川関次郎
憲兵隊長 憲少佐 横田 昌隆 (32)

 注:兼印は兼務。各課においての課長は名を青色で示している。( )は陸軍士官学校の期を示す。

指揮官一覧表(昭和12年12月)

軍 師 団 編成地 師団長・参謀長 旅団 編成地 旅 団 長 連隊 編成地 連隊長
上海派遣軍 3 名古屋 藤田 進中将(16)
 田尻 利雄大佐(23) 5 名古屋 片山理一郎少将(19) 6 名古屋 川並 密大佐(24)
68 岐 阜 鷹森 孝大佐(20)
29 静 岡 上野勘一郎少将(21) 18 豊 橋 石井 嘉穂大佐(24)
34 静 岡 田上 八郎大佐(25)
9 金 沢 吉住 良輔中将(17)
 中川  広大佐(22) 6 金 沢 秋山 佳兌少将(20) 7 金 沢 伊佐 一男大佐(23)
35 富 山 富士井末吉大佐(19)
18 敦 賀 井出 宣時少将(21) 19 敦 賀 人見 秀三大佐(23)
35 鯖 江 脇坂 次郎大佐(19)
11 善通寺 山室 宗武中将(14)
 片村 四八大佐(23) 10 善通寺 天谷直次郎少将(21) 12 丸 亀 安達二十三大佐(22)
22 松 山 永津佐比重大佐(23)
22 徳 島 黒岩 義勝少将(18) 43 徳 島 浅間 義雄大佐(12)
44 高 知 和知 鷹二大佐(26)
13 仙 台 萩洲 立兵中将(17)
 畑 勇三郎大佐(23) 26 高 田 沼田 徳重少将(19) 58 高 田 倉林 公任大佐(22)
116 新発田 添田  孚大佐(20)
103 仙 台 山田 栴二少将(18) 65 会津若松 両角 業作大佐(22)
104 仙 台 田代 元俊大佐(24)
16 京 都 中島今朝吾中将(15)
 中沢 三夫大佐(24) 19 京 都 草場 辰巳少将(20) 9 京 都 片桐 護郎大佐(20)
20 福知山 大野 宣明大佐(23)
30 津 佐々木到一少将(18) 33 津 野田 謙吾大佐(24)
38 奈 良 助川 静二大佐(19)
101 東 京 伊東 政喜中将(14)
 西山福太郎大佐(24) 101 東 京 佐藤正三郎少将(19) 101 東 京 飯塚国五郎大佐(22)
149 甲 府 津田 辰参大佐(19)
102 東 京 工藤 義雄少将(17) 103 東 京 谷川 幸造大佐(21)
157 佐 倉 福井浩太郎大佐(20)

第10軍 6 熊 本 谷 寿夫中将(15)
 下野 一霍大佐(23) 11 熊 本 坂井徳太郎少将(17) 13 熊 本 岡本 保之大佐(21)
47 大 分 長谷川正憲大佐(24)
36 鹿児島 牛島  満少将(20) 23 都 城 岡本 鎮臣大佐(22)
45 鹿児島 竹下 義晴大佐(23)
18 久留米 牛島 貞雄中将(12)
 小藤  恵大佐(20)  23 久留米 上野 亀甫少将(18) 55 大 村 野副 昌徳大佐(22)
56 久留米 藤山 三郎中佐(22)
35 福 岡 手塚 省三少将(19) 114 小 倉 片岡 角次中佐(23)
124 福 岡 小堺 芳松中佐(23)
114 宇都宮 末松 茂治中将(14)
 磯田 三郎大佐(25) 127 宇都宮 秋山 充三郎(18) 66 宇都宮 山田 常太中佐(24)
102 水 戸 千葉小太郎大佐(21)
128 高 崎 奥  保夫少将(17) 115 高 崎 矢ヶ崎節三中佐(27)
150 松 本 山本 重悳中佐(23)
5 9 広 島 国崎  登少将(19) 41 福 山 山田鉄二郎大佐(20)

注:( )は陸軍士官学校の期を示す。

中国軍の編成
 これに対し南京防衛軍の兵力配備=戦闘序列は次の通りである(張其的、魏汝霖編著『抗日戦史』中華民国国防研究院出版による)。

司令官  唐生智 第72軍 孫元良(88師)
副長官  羅卓英、劉 興 第78軍 宋希謙(36師)
第2軍団 徐源泉(41師、48師) 教導総隊 桂永清
第66軍  葉 肇(159師,160師) 第103師 何知重、第112師、霍守義 
第74軍  兪済時(51師,58師) 江寧要塞司令 陌百昌
第83軍  訒竜光(154師,156師) 憲兵部隊(両団)齏山令
第71軍  王敬玖(87師)  その他砲兵、通信部隊

■ 兵 力 配 備 水西門、中華門、武定門、雨花台−88師
玄武門、紅山、幕府山、ゆう江門−36師(幕府山要塞と協同作戦を行う)
光華門、中山門、太平門、天保城−教導総隊(一部をもって烏龍山要塞を守備する)
定准門、漢中門、清涼山−憲兵主力
外郭地帯(板橋鎮、淳化鎮、湯山、竜漂の概説陣地)−第2軍団、第74軍、第83軍(6個師)
増援部隊−66軍、71軍、74軍、83軍、103師、112師

兵力配備は上図の通りである。(「抗日戦史」54ページ)。

 当時日本軍は中国の首都防衛軍を10万と見ていた。
 それは前記の戦闘序列に名を連ねた兵団番号によるが、南京陥落時の城内の兵力はその半数以下とみるのが妥当のようである。

 ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、次のように述べている。
 「南京包囲の日本軍に対抗したのは、広東軍数個師団、江西軍2、3個師団、若干の湖南軍、さらに城内では第36師、第88師およびいわゆる南京師団であった。広東軍部隊は、上海付近から日本軍の前面を退却する間、何週間も日本軍の砲撃にさらされていた。
 かつて蒋介石総統の精鋭軍であった第36師と第88師は、上海付近で大損害を蒙っていた。
 これらの師団は南京に退却して新兵を補充した。
 蘇州と句容の間で日本軍の進攻に第一線に立って抵抗してきた四川軍の大部分は蕪湖からは揚子江を渡河してしまい、南京の戦闘には加わらなかった。
 南京市内外の中国軍の戦力がどれほどであったか正確にあげるのは難しい。
 ある観察者たちの推定では、南京攻防戦には16個師団が参加したという。この数字は正確と見なされる。
 中国軍の師団は平時においてさえも、平均してわずか5000名編成にしかすぎない。南京を防衛して痛撃を蒙った大師団は、少なくとも場合によってはそれぞれ2000〜3000名編成であったこともあり得る。
 約5万人の軍が南京防衛戦に参加し、袋のネズミとなったといっても間違いない。」(AII286〜7ページ)
 そのほか、在南京米大使館アリソン三等書記官から在漢口ジョンソン大使あてに送付した南京米副領事ジェームス・エスピーの報告書には「町(南京)は5万を越えざる兵数にて守らるることとなり居れり。実際僅かに唯の5万に過ぎざるなり」とある(「速記録」58号21・8・29)。
 また、東京裁判の判決文の中にも「中国軍はこの市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した」「残留軍5万の大部分は・・・・」とあり、中国の南京守備兵力5万と判定して議論を進めている。
 また「南京安全区国際委員会」の日本大使館への公文書の中にも「南京衛戌軍五万」と記載されており、昭和12年12月13日の南京陥落時における唐生智麾下(きか)の兵力はおおむね5万とみられていた。
 しかし、歩兵第19旅団司令部の通信班長犬飼總一郎氏は、紫金山で戦闘した体験と、戦後の中国側の資料その他から推理して「陥落当時の城内の兵力は、「せいぜい3万ていど」という見方をしている。
 これを裏付けるように、最近秦郁彦が台湾で取材したところによると、中華民国の関係者は、城内兵力3.5万と計算している。要するに3.5万から多く見積もっても5万である。
 なお唐生智は11月28日、外人記者会見で、中国軍は訓練も足りず、規律も良くないので、不祥事が起こるかもしれない、無用の外人は退去されたいと警告している。
 部下が何をしでかすかわからん、責任は持てないから退去せよというのである。
 このため、前述の「安全区国際委員会」の委員15名、新聞記者5名、若干の公館員等20数名を残す他は、12月7日の蒋介石脱出と前後して南京を退去している。

                                                                                                                                                                • 』 (2004/10/13 02:53)



▼2004年10月12日のブログでの「騙り」「なりすまし」と捏造
http://d.hatena.ne.jp/claw/20041012

claw 『
▼【情報】南京大虐殺と「百人斬り(の真相)」のまとめページ

  http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/index.html

 「「南京大虐殺は捏造だ!」と叫ぶ奴らは右翼だ!」と叫ぶ前に読むべきネット上の資料集。
# bellbell 『clawさんの精神が非常に病んできているのが心配なので、
やっぱりロムはやめてこれからも書くことにします。』 (2004/10/12 14:16)
claw 『しかし、書いてあることは私などよりずっと正確なので、私もみなさんにおすすめします。』(2004/10/12 14:45)
liufeng219 『たいへんな事をしてしまいすみませんでした。
claw様、どうぞお怒りをお鎮めください。
これからはclaw様の舎弟という自分の立場をわきまえた発言をし、
claw様に意見などというおこがましいことは二度と致しません。
すみません。本当にすみません。』(2004/10/12 15:35)
claw 『> liufeng219
ケッ、わかりゃいいんだよ。日本語の読み書きもできない無知が。
酸性雨で顔あらって目ぇ覚ましてこいw』(2004/10/12 15:42)

claw 『本宮ひろ志漫画弾圧事件?弾圧?どこが?(プッ) 
http://sakura777.web.infoseek.co.jp/motomiya-shuueisha.html
中共の捏造資料を基にして南京大虐殺を週間ヤングジャンプで漫画化。
しかもさらなる捏造つき。
http://www.nextftp.com/tarari/Matsuo/ryojoku94.jpg
この写真。
女性の隣に写る兵士の服装と帽子が日本軍のものではないことから捏造が立証されていた。
         ↓
http://sakura777.web.infoseek.co.jp/2014-sumi.jpg
だが本宮の漫画に書き写された写真ではちゃっかり服装と帽子を日本軍のものに書き換えている。
南京大虐殺はウソだ!
http://www.history.gr.jp/nanking/
南京陥落後に撮影された風景
http://www.history.gr.jp/nanking/fukei.html
南京攻略戦に参加したじいちゃん
ttp://www.history.gr.jp/nanking/moriou.html#01
資料を纏めるいかがわしさについて
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_nankinziken_shiryonozusan.htm
南京大虐殺の虚構
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/
南京事件について
http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/moteki/nankin2.html
歴史論争最前線
http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/top.html
怪しい調査団、南京へ
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/tyousa01/nanking1.htm
事実と論理の力
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog079.html
南京大虐殺関係資料
http://nankinrein.hp.infoseek.co.jp/index.html
歴史関係「南京大虐殺
http://www.ii-park.net/~imzapanese/rekisi/nankin.htm
参考:左翼がサヨクにさよくとき
http://www9.big.or.jp/~cumy/sayoku/
日本人ってほんと騙されやすいよな。オレオレ詐欺といい、南京大虐殺といい。
故人の名誉を毀損した作品が糾弾されたら弾圧だと(プ)』
# claw 『ゲリラ兵と法について。
 通常、一般文民の中にまぎれて或いは一般文民の支援を受けて行動する。そのため、文民との区別がきわめて困難であり、そのことが一般文民の被害を増大させる一因ともなっている。
第一次大戦までは、一般化されてはいなかったたが、以後は多用されるようになる。
例えば、第一次大戦までは、一般住民の死者数が全死者の五%前後、第二次大戦では四八%であったのに対して、朝鮮戦争では八四%、ベトナム戦争では九○%以上に達するといわれるほどである。

 ゲリラ戦法というのが、文民保護という戦争法の基本原則から全く逸脱した行為であるのは、このような事実からも明らかである。 正規兵の要件を満たしていないゲリラは、ヘーグ条約やジュネーブ条約においても不正規兵としての交戦資格も有していない、すなわち、「捕虜になる資格がない」と結論づけられている
ゲリラ兵は、その戦闘方法の特徴の故に、不正規兵に課された捕虜待遇を享有しうるための要件を満たすことが困難である。
   
 1949年のジュネーブ四条約およびその後の二つの追加義定書の根底にある考え方は、「文民保護」であることは常識であろう。そして、戦闘行為を規律する法規であるヘーグ法にしても、もとをただせば人道的考慮に基礎づけられている 文民保護のための大前提が「戦闘員と一般文民との区別」であり、同時にこれは、今も昔も一貫して、戦争法・人道法の基本原則なのである。したがって、文民との区別がし難い「ゲリラ」については厳しい判断がなされている。
        ヘーグ条約
第一章   合法的な交戦者資格規定
第二章   捕虜の享有する保護
        背信行為の禁止
文民又は非戦闘員の地位を装うこと」=「背信行為」
   便衣兵 = 戦時国際法違反 = 重罰
 正規の軍人は一般に制服着用を必要 軍艦、航空機はそれに一定の外部標識を付ける 交戦資格が捕虜資格であると考えてよい。 ジュネーブ条約第一追加議定書では、「戦闘員は、一般文民から自己を区別すべき義務を負い、特に正規軍については従来からの制服着用の慣行がそのまま維持 一般住民との区別条件は、一定の場合(一般市民と離れたところで戦闘を行うなど)には公然武器携行でよいことになったが、正規兵というのは、慣行上制服を着用するものであり、また、文民との区別の必要上それが求められるのであり「慣行」を変更するものではない 意識して文民との区別をつけない便衣兵は、今も昔も捕虜の資格がない。

「戦闘員は、攻撃又は攻撃の準備的軍事行動に従事するとき、自己を一般住民と区別しなければならない」
戦闘員は、戦争法規尊守義務と文民との区別義務を負う。文民との区別義務に違反すれば、捕虜資格を失う。
捕虜 文民保護の為の規定も緊急状態の場合に遵守されることを必要としない。

 ゲリラ、とりわけ中国の便衣兵というのは、当初から便衣を着用して文民に紛れ込むということを、その特徴としていたわけであるから、正規兵としての「慣行」に従っていない、すなわち正規兵の範疇に入るとはとうてい言い難いということである。 ゲリラ戦は、中国の流儀 大陸の流儀でもあった。
 欧米・アメリカなどは、反日プロパガンダ ゲリラ支援煽動経済軍事兵器物資援助を昭和の初期から中国で展開している そして後にフィリピンなどアジア諸国地域でも行っている  アメリカの利己的 なりふりかまわぬ利欲と 有色人種を自らの利権獲得の「道具」としてしか顧みることのなかった欧米・大陸の植民地主義の体質に原因が、あったのである。 

 日本軍は、便衣隊について中国側に常々警告を発していたのであるが、「全民抗戦」を決意している者たちは、これを聞く耳を全く持っていなかった、というよりは、便衣隊は中国側の基本戦術の一つなのであり、この戦法を放棄するわけにはいかなかったのである。
 明らかな戦時国際法違反である便衣隊について、日本側は再三にわたって中国側に警告を発したのであるが、それは無視されたのである。そして、日本は対抗措置として便衣兵と確認されたものは処刑との基本方針でのぞんでおり、このように上部での方針が明らかな場合は簡易裁判で、場合によっては即決での処刑も、軍事的必要性という観点からすれば、必ずしも許されない行為ではないのである。
よって、日本軍の「虐殺」は、単なる簡易裁判後の死刑であって、民間人を虐殺した、というのは戦後における全くの捏造である。』
claw 『
劇画 政治家になった理由  畠 奈津子 作
この実話には本当に感動しました。素晴らしい話です。(;_;)

この人を貶めるのか。いくらなんでもやっていいことと悪い事があるぞ。おまえの人格は歪みきってるな。>■ 櫻:

http://www.n-shingo.com/cartoon/index.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page02.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page03.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page04.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page05.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page06.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page07.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page08.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page09.html
http://www.n-shingo.com/cartoon/page10.html

私は断固、民主党 西村真悟議員を支持します。
http://www.n-shingo.com/index.html
みなさんもぜひ民主党西村真悟議員を支持してください。』(2004/10/12 19:58)
# claw 『案外、面倒だから本物か偽物かのチェックなんてしなかったりすんだよなw』

# claw 『漫画で歴史のお勉強かよ・・・今問題となっているのは、その漫画の表現自体なんだが?>■ 櫻:』

# あるてハイマー 『
>明らかに根性の悪いことを書いてるのが俺w

よくいるよな。自分ではワルって思ってるけど端から見るとただの間抜けって奴w』

# claw 『
俺は今はこれらが南京事件の真実だと思っています。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H10/1009/100918nankin.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110101nankin.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110103nankin.html
 平成元年発行の
南京事件 京都師団関係資料集』
と題する本の中で、中国人捕虜を虐殺したなどと書かれ
名誉を傷つけられたとして、旧日本軍兵士の橋本光治氏
(83)が、同書の原典となった日記などを書いた元部下の
東史郎氏(86)や出版元の青木書店などを相手に、計
200万円の損害賠償と謝罪広告掲載を求めた訴訟の控訴
審判決が旧臘22日、東京高裁であり、奥山興悦裁判長は
東らに50万円を支払うよう命じた一審判決を支持し、原告、
被告双方の控訴を棄却した。
 判決理由の中で奥山裁判長は
 「東氏の日記は現存せず、本に記載されている虐殺行為を
  裏付ける客観的な証拠はない。橋本さんは残虐な行為を
  したと公表されたため、社会的評価を低下させられた」
 として、橋本さんの実名を記載した本が名誉棄損にあたると
認定。
 中国人捕虜を袋詰めにしてガソリンで火を付け、手榴弾
結び付けて沼に投げ入れたとする記述は、
 「やけどの危険を負わずに実行することができたかは疑問で、
  真実とは認められない」
 とした。
 東は控訴審のなかで、捕虜虐殺の現場を訪れて記憶がはっき
りしたとして、虐殺についての証言を行ったが、奥山裁判長は
 「すでに周囲の状況は一変しており、以前にまったくなかっ
  たといってよい記憶が鮮明によみがえるというのは不自然
  で、信用できない」
 と退けた。
 さらに
 「東氏が具体的な事実を再現して供述することができないの
  は、本件行為が実行されていなかったためと推認せざるを
  得ない」
 として、東らに50万円の支払いを命じた。
 東らが一審判決を取り消すよう求め、橋本さんも一審判決で
認められなかった謝罪広告や本の出版差し止めを求め、双方が
控訴していた。東側の弁護団は上告するという。
2.傍聴した阿羅健一氏の話
判決の後、司法記者クラブで行われた記者会見(写真右)には
30人ほどの中国のマスコミ関係者がなだれこみ、判決は不当だ、
南京虐殺は本当だ、とわめきちらし、記者会見に臨んだ高池勝彦
弁護士に迫るほどで、司会者が近寄らないで下さいと制止しても
聞かず、会場は混乱に陥った。
 その一方、高池弁護士が質問に答えると急に黙ったりで、日本
で考えられるようなマスコミが中国では存在しないことが明らか
となった。
 これに対して日本の記者たちは黙って見ているだけで、いかに
日本の主体性が失われているかも示したといえよう。なかでも
読売新聞は主体性のなさを自ら示した。判決についてはどの新聞
も報道したのに、読売新聞だけはまったく報道しなかった。部数
だけが一番の“カミッペラ新聞”と言われる所以である。
 TBSテレビが6時からのニュース番組で報じ、報道の中立性
を示したのは注目すべきであろう。
3.原告の橋本氏「正しい判決」
 中国人捕虜虐殺を巡る名誉棄損訴訟の控訴審で請求の一部を認
められた旧日本軍兵士、橋本光治氏(83)は判決後、
 「一審に続いて正しい判決だと思うが、南京事件のことが中国
  などの一部マスコミで強調されており、素直には喜べない」
 と複雑な表情。
 東京・霞が関の司法記者クラブで会見した原告側の高池勝彦
弁護士は
 「被告側はさまざまな資料を用意したが、核心をつくような
  反証はなかった。裁判所もその点を理解してくれたと考えて
  いる」
 と判決を評価した。
___________
 米国でベストセラーとなったアイリス・チャン女史の
著書『レイプ・オブ・ナンキン』では24ページに亘って
写真が紹介されている。
これら「南京事件」のモノとされる写真の殆んどは偽物、
またはキャプション改竄の”やらせ”写真であることが判明
しているが、中には合成写真すらある。
(写真右)人の姿、影などが明らかに合成したものと判断できる
箇所(白線で指摘)の写真
     ・・アイリス・チャン著『レイプ・オブ・ナンキン』より
同書に使われている合成写真は「UPIのべトマン氏」
が提供者となっているが、
朝日新聞社刊の『南京虐殺の現場』では一中国人が
拾ったとされており、
河出書房新社刊『死者が語る戦争』では新華社提供と
なっている。
この写真は実は二種類あり一枚は簡単な合成。もうひと
つは合成写真の完成度をより高くしたもので、チャンの
写真は後者の方。
合成初期の写真で、中央左下の鉢巻きをしている男性の
上を見ると兵士が白と黒の隙間に挟まれているところがあ
る。これが右と左の写真を合成した時に出来た歪みである。
もうひとつは後ろで見守っている兵士達の視線を見ると
2、3名の兵士が注視しているが、良く見ると視点がおか
しい。通常見学者というのは動いているものに注目するは
ずだ。
兵士達の中には外套を着ているように、当時の南京は
相当に寒かった。だが作業をしている兵士は鉢巻に薄着で
ある。腕まくりなどは不自然といわざるを得ない。
今まさに埋められようとされている背広の人物は硬直し
ており、穴の深さと釣り合わない背の高さだし、影もおか
しい。右手前の土砂の影のつき方もおかしい。
 不自然な点をいくら挙げても尽きないが、結論として
これは合成写真であることが判然とする。歪みや写真の
濃淡の違い、また影などを誤魔化す事が出来なかったの
である。』 (2004/10/12 20:40)
# dox 『偽者論争に反応した時点で動揺ry

>いやー、でも実際、人の名前騙ってまで、Clawさんに気付いて欲しいんだなー、とか思うと哀れですね。これが必死ってことなんだなあ・・・(しみじみ)

ハーイ皆さんツマラナイ馬鹿が釣れましたwwwwwwww』 (2004/10/12 21:36)

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」