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コメント欄のログ

http://d.hatena.ne.jp/claw/20041014のコメント欄が
容量制限で書けなくなったので、こっちにもってきたよ(@∀@)


# hokusyu 『ひっかかってみた。基本的にアレですよ。偽者さんが張っているコピペは、南京損層を少しでも覗いたことのある人間ならばすべて既出なわけで、それに対する反論はそれこそ本物さんが紹介しているサイトでかなりの部分行われている。だが、そーゆーのを意図的に無視するというか、まるで人口無脳のように繰り返し同じ言説をはきまくるっていうのは、修正主義者特有の(ry。
史料だって、研究者ならばコピペにあるようなものは一通り目を通しているわけでしょう。しかし、彼らは既存のある程度確定された学説に対して、新しい史料を提示するのではなくて、既存の史料を恣意的に読み替えることのみによって反論足りうると思っている。「捏造が暴かれた!」って、よく読んでみるとそれは史料的根拠に基づくものではなくて、結局既存の史料を無理やり捏造であると読み替えただけだったりする。ところが、それを鵜呑みにしたネットウヨがいろいろなサイトで「啓蒙」に走るんで、なぜかそっちのほうが真実である(少なくとも有力な説である)という既成事実が出来てしまうんだな。』 (2004/10/13 04:45)

claw 『イヤーン、そんなまっとうな意見を期待してたんじゃないのにぃー(;´д`)
自作自演の「虐殺なかった厨」のみなさん、ほーら、みなさんの好きなコメント欄ですよ〜! ネットの上でギッてきたコピペを貼っていいんですよカモーン♪W』 (2004/10/13 05:04)

# うし 『南京大虐殺論争は、ずっと昔に虐殺自体はあったことは事実と言う結論が出て、その後の議論の焦点は虐殺の規模(数千人〜数十万人、大虐殺といえる規模か)に移っていたんですが。『国が燃える』には「大虐殺」とは一言も言っておらず虐殺人数にも全く言及がないのに、右翼たちがあそこまで攻撃するとはおかしな話です。ウヨクの坊や達は歴史修正主義者のレトリックにコロッと騙されているようですね。』 (2004/10/13 07:25)

# 名無しさん 『
前スレにて書けなかったので、こちらにて。

>あ、お返事忘れてました。すみません。 両方のため、さらにclawさんのためを思ってのことです。
>こちらの方のように、知りたいと思っていらっしゃる方も多いと思われますし、clawさんの言葉の説得力ももちろん上がるでしょうから。

如何なる理由があろうとも荒らしのような行為は止めて下さい。
他人の迷惑になるのに勝手に理由をつけて、自分勝手な我が儘を続けてしまうのも”テロの一つ”では?。
現状では進展が全くないのであれば違う手を考える。だからメールを出して直接問い合わせてくださいと言っているのです。』 (2004/10/13 08:41)

# 下松 整 『
clawさんこんにちは。
>如何なる理由があろうとも荒らしのような行為は止めて下さい。

は?何かあったのですか?荒らし?なりすましですか?
よくわかりませんが、それを私がしていると言いたいのですか?
私はこの名前以外では書いていませんので、どうぞ誤解なきよう願います。

こちらでは以前にも私は他の方と同一人物と思われました。それも何人もの方に。
そんなに私は誰かに似ているのでしょうか。
どうもこのページに集まる方々は、自分たちと違う意見の方は、常に
たった一人しかいないと信じていらっしゃるようですが、それはどのような根拠や自信に
よるものなのでしょうか。
私には、あなたがたの考え方がそれほど主流だとは思えないのですが・・・。

>俺の立場はハッキリしてるのに、それを読み取れないおまいさんがサラシモノになってるわけでzzw
>俺としては「こいつぁどこまで気づかないのかナ」とニヤニヤしながら見てるだけさ、ボウヤw
-
それはいったいどこにあるのでしょうか?私にはわかりませんので教えていただければ幸いです。
また、はっきりしているのなら、それをたったもう一度表明していただく事ができない理由とは何なのでしょうか?
私の質問は、たったこれだけです。なぜこれに答えていただけないのでしょうか?
-
 clawさん、あなたは http://d.hatena.ne.jp/claw/20040909 の文章やリンクの意図をおうかがいします。
 あなたは、この文章で、北オセチアでの民間人へのテロ事件を起こした集団に対し
 非難の立場で書きましたか?それとも同情の立場で書きましたか?それとも、どちらの立場でもありませんか?
 また、その気持ちは、どちらがより強いでしょうか?

  • 』 (2004/10/13 11:14)

# dox 『




.






糞サヨの口癖
「自爆」
「墓穴を掘った」
これが出てきたら、そいつは糞サヨだ!w









.』 (2004/10/13 11:57)

# ブサヨ 『doxテーメー
ツマンネーから早く消えろ。 
clawみたいに面白くもねーし


もう飽きた』 (2004/10/13 12:08)

# sato 『浜岡原発廃炉等を求める署名にご協力ください。
NGO活動で署名を集めております。以下の意見に賛同いただける方は、ぜひこちらに署名いただきたいと思います。
http://www.bund.org/hama.pdf 
 2001年11月に浜岡原発1号機で配管破断事故と原子炉水の漏洩事故が相次いで発生し、構造
上の欠陥や老朽化、さらにはずさんな保守点検体制が強く指摘されています。事故の当事者であ
中部電力㈱の最終報告でも事故の原因は解明されていません。
 浜岡原発は「明日発生しても不思議ではない」といわれる東海大地震の想定震源域の中心部で
あり真上に建っています。中部電力㈱はマグニチュード8.4に耐えられるように設計してあるとし
て安全性を強調していますが、その耐震設計審査指針は、1号機・2号機は1978年に策定したも
のであり、3号機・4号機も10年から10数年前のものです。最新の地震学に照らしたとき、まっ
たく信頼性のないものです。加えて過去の地震発生に見られるとおり、自然現象は予想しない事
変も起こり得ます。原発事故の悲惨さを考えるとき、浜岡原発がこれまでの対応でよいはずがあ
りません。
 以上の点から、私たちは次のことを求めます。
1.すでに老朽化している1号機と2号機は廃炉にすること。
2.3号機と4号機は耐震性の見直しを行い、最新の地震学に照らした耐震設計審査指針を策定し、
  安全性が確認されるまで運転を停止すること。
3.建設中の5号機の建設を中止すると共に、予定されているプルサーマル計画導入を撤回すること。』 (2004/10/13 12:31)

# サヨク 『まったく俺たちの仇名は


カス
バカ
アホ
ゴミ
電波
claw
粘着
ゲロ
サヨ
ブサヨ  ←お奨め
負け犬
ウンコ
売国奴
基地外
臆病者
糞サヨ
毛沢東
市民の敵
人類の敵
地球の敵
平和の敵
支離滅裂
クソサヨ  ←お奨め
中国の犬
朝鮮の犬
生涯下僕
自称市民
ネトサヨ
ネットサヨ
精神分裂病
ネット弁慶
スターリン



ロクなのないなw』 (2004/10/13 12:33)

# artane 『遠藤ミチロウは偉大な現代詩作家だぞ、馬鹿にするな(-_-#』 (2004/10/13 13:17)

# ■櫻: 『でむぱ放送局が平和教育マニュアルを入手!

 学校などで少年少女を相手にニホングンのハンザイを喧伝する先生方などサヨクの皆様に朗報です。これまでサヨクの先輩方が積み上げてきた少年少女サヨク化洗脳のノウハウをまとめました。このマニュアルに添って洗脳すれば、子供たちはサヨクに程なく退化。
 その成果を日教組の大会で報告すれば全国の先生方からの万雷の拍手。あなたは恍惚の表情で幸せいっぱい鼻高々。楽しみですね。
 では少年少女サヨク化の方法を順にご説明いたします。

(1)捏造写真などによる贖罪意識の刷り込み(「日本軍→強姦虐殺」の刷り込み)
 まずはとにかくニホングンギャクサツ嘘写真や捏造物語を若者に示してショックを与え、贖罪意識を刷り込みましょう。

ポイント1:嘘か本当かなどどうでもいい(嘘をついてもかまわない)
 こういう宣伝は嘘であってもかまいません。本当か嘘かなどどうでもいいのです。既に嘘であることが証明されている内容であっても、あなた自身が本当のことだと自己暗示して語りましょう。

ポイント2:「日本軍→強姦虐殺」を刷り込む
 (1)では「日本軍」とか「日本」とか「天皇」などの言葉を聞くだけで虐殺とか強姦を連想させるように刷り込むことも大切です。これは反日プロパの基本ですね。
 ポイント2の刷り込みにあたっては、以下ポイント3,4,5が効果的です。

ポイント3:強烈な虐殺強姦捏造物語の性的虐待により深刻な心理的外傷を与える。
 とにかくまずは、圧倒的に血みどろのニホングンギャクサツゴーカン捏造物語を聞かせ、残忍なニホングンギャクサツ嘘写真を見せましょう。こういった言葉による性的虐待により多感な子供たちはひどくショックを受けます。時に深刻な心理的外傷(トラウマ)となります。これでいいのです。
 「日本軍」とか「日本」とか「天皇」などの言葉を聞くだけで虐殺とか強姦を連想させるように刷り込むにあたって、強烈な心理的外傷となるほどのショックを与えるとより刷り込みは強固になります。ですから残虐物語を語るにあたって、「日本軍」とか「日本」とか「日の丸」とか「天皇」などの言葉を主客に置くことを忘れないでください。
 とにかく徹底して血みどろに残虐で性的な嘘八百セクハラ強姦物語を聞かせましょう。残虐で性的であるほど刷り込みはよりパーフェクトのものになります。

 こういった圧倒的に残忍な「事例」を示されると人間は論理的にモノを考えられなくなり、思考停止します。これでいいのです。頭が退嬰化し刷り込まれた内容に疑問を感じることができなくなります。それ以上に、そもそも刷り込みを受けていること自体を認識できなくする効果も期待できるのです。

ポイント4:特にポイント3は幼少期であるほど効果的。
 ポイント3の心理的外傷を与えるのは幼少期が効果的です。より多感な幼少期であるなら、ショックは大きくすなわち刷り込みはより強固となります。ですので日本軍虐殺強姦捏造物語の刷り込みは、中学高校以前に小学校段階から行うほうが効果的です。
 中学高校となると中には冷静に思考できる学生もいます。教育会そのものがひどく歪んだ状態にあることを冷静に把握している学生もいます。中学高校となると嘘八百であることを知っている学生から教室で嘘を看破され大恥をかく心配があります。ただこういう時は、「今の△君の意見に賛成の人!」などと逆ギレ見せしめ吊るし上げをしましょう。日本軍虐殺強姦捏造物語に誰も逆らえない雰囲気にできればOKです。
 でも小学生が相手なら、教室で学生から嘘ぶりを看破されて恥をかく心配もありませんね。

 おまけに教師が学校で子供を相手にエロ話を公然とできて楽しいですよ。子供たちが嫌悪し身震いする有り様、うひひ癖になっちゃいます。

ポイント5:とにかく繰り返して条件反射を刷り込む。
 ポイント2:「日本軍→強姦虐殺」を刷り込むには、何度も繰り返すことも重要です。「日本軍」、「日本」、「日の丸」、「天皇」の後に「強姦」とか「虐殺」とかを繰り返せば、パブロフの犬のようにその連想が条件反射となります。

(2)ハンセーとシャザイをすれば許してもらえるとそそのかす
 (1)のニホングンギャクサツ嘘写真捏造物語にショックを受け贖罪意識にさい悩んでいるところに、「ハンセーしてシャザイ」をすれば許してもらえるとそそのかしましょう。子供たちは贖罪意識から解放してもらえるとばかりに、これに喜んで飛びつきます。これに飛びついても、ワルイコトをした者と規定されるのは自分ではなく、あくまでわれわれの祖先です。我々の祖先の戦いを全否定する主張により傷つけられ実害を受けるのは自分ではなく、あくまで他人です。他人の立場って考える能力の欠如した子供の場合、特に安心してこれに飛びつきます。

ポイント1:ニホングンギャクサツ情報への疑問自体をワルイコトであるかのように洗脳
 また「ワルイコトをしたらハンセーするのがホントーのホコリです。」というセリフも効果的です。嘘写真や捏造物語を疑うことそのものが何かワルイコトであるかのような気分にさせる効果があります。嘘写真のゴマカシを看破することが、あたかもイイワケをしているかのように思わせる効果もあります。
 この病理におかされるとニホングンギャクサツ嘘写真捏造物語の嘘ぶりを看破する数多くのあらゆる事例が、あたかも「ニホンのセンソーセキニンをゴマカソーとしている」かのようにしか見えなくなります。嘘写真看破の事例を何一つ論理的に検証できず、「ニホンのセンソーセキニンをゴマカソーとしている」の一言で思考停止するようになります。

ポイント2:吊るし上げの快感を教える
 ここで重要なのは、とにかく「ニホングンのアクジ」を吊るし上げる快感や、「ボクってハンセーするイイヒト」気分に浸る喜びを刷り込むことです。ワルモノやっつけゴッコは楽しいですね。「やったあ正義のヒーローだあ。」この快感に味をしめたら、サヨク化にほぼ成功したも同然ですね。
 何事につき楽しいにこしたことはありませんね。

ポイント3:支那の「寛大さ」を強調
 支那が「反省すれば許してくれる寛大な国」だと強調しましょう。支那政府もその言い草を頻繁に宣伝しています。「広い大陸に暮らす支那の人々は心が広く寛大」と何度も連呼しましょう。支那の「寛大さ」を捏造して支那への引け目を感じるように刷り込みましょう。支那への引け目を感じる者は、支那政府がどんなに日本にあらゆる暴挙を行ってもあまり怒りを感じなくなります。これでいいのです。支那政府の暴挙を看過する人間となるように刷り込みましょう。
 支那人を最も殺したのは現共産支那政府や国民党であることなどはもちろん隠蔽しましょう。
 ちなみに「支那」は禁句です。支那政府から禁止されています。支那政府のお達しは無条件に従うべきです。「中国」と呼びましょう。これは世界の中心の国という意味です。こういったちょっとした工夫で支那政府への忠誠心植え付けも重要です。
 支那を禁止するために「支那は差別語である」とか嘘もOKです。支那政府がお達しになればそれは無条件に差別語なのです。考えてはいけません。

 支那サヨクの故郷です。支那政府への感謝と忠誠心を植え付けることを忘れてはいけませんね。

ポイント4:日本政府はセンソーハンザイをゴマカソーとするワルモノという構図も強調
 支那政府への感謝と忠誠心を植え付ける一方、日本政府への疑惑と憎しみを植え付けましょう。
 日本政府は既にさんざん支那に土下座&貢ぎ外交を行っていますが、まずはこれを隠蔽し、「ニホンセーフはシャザイしていなイー」と刷り込みましょう。ワルモノやっつけごっこを楽しむにはワルモノはワルモノである必要があります。日本政府はセンソーハンザイをゴマカソーとしているワルモノという構図を捏造して刷り込みましょう。

ポイント5:「歴史の汚辱を見つめる勇気」のある人などと、おだても大切
 「歴史の汚辱を見つめる勇気」などというセリフも効果的です。祖先の吊し上げをやらせ、その上ユーキのある人などと誉めましょう。おだてて意のままに躍らせましょう。祖先を吊し上げる「勇気」という、腐った「勇気」なるものに酔いしれる人間にしましょう。
 祖先の吊し上げにいくらかの良心の呵責を感じる学生であっても、「ボクって歴史の汚辱を見つめる勇気があるのかあ。」とおだてられると良心など消し飛びます。更に他人を「歴史の汚辱を見つめる勇気のないひと。」などと罵倒して自分の「勇気」に酔いしれる人間にもなります。

(3)サヨクであることが生きがいになったら完成
 以上の洗脳を行えば子供たちは日本人であることに嫌気がさしてきます。子供たちを日本人であることに嫌気をささせることに成功したら、サヨクであることをアイデンティティに刷り込むチャンスです。

 人間は群生成物であり集団の中で自分が存在する意味を求める性質があります。
 日本人であることに嫌気がさすことで、自分が存在する意味や価値を見失い心に空白が生まれます。放置すると奇怪な新興宗教などに加入するでしょう。その空白を「ニホングンのハンザイをつるし上げる喜び」で埋めれば完成です。
 反日日本人であることに喜び生きがいを感じ、ひたすら土下座を政府に要求してイイヒト気分に浸る喜びを調教し終えると完成です。

 生きがいというのは、おおむね人畜無蓋です。多くの人々にとっての生きがいとは自分の子供であったり、仕事であったり、スポーツ観戦であったりします。祖国や郷土の役に立つことである場合もあります。これを否定されると自分自身を否定されたかのように感情的に怒ります。もちろんこれは普通の反応です。
 その生きがいが反社会的はモノであった場合実にやっかいです。なぜなら、生きがいとはその人間の目的そのものであり存在意義であり、いわばその人間そのものと言いかえてもいいモノだからです。
 サヨクであること(ニホングンのアクジを吊し上げるイシキの高いエライヒトと思い込める立場にあること)がその人間の生きがい、存在意義になってしまうと、そこからの脱却はまず不可能です。これを否定されると自分自身を否定されたかのように感情的に怒りだすでしょう。
 こうなるといかなる論理的実際的な事例で「ニホングンのハンザイ」の捏造ぶりを示しても、「ニホングンのハンザイをゴマカソーとしている」の一言で何一つ検証せず思考しない人間となります。なにしろ、「ニホングンのハンザイ」を吊し上げてボクってイイヒトという有り様が、その人間の存在価値と直結しているのですから。

 こういう状態に子供たちを退化させることができたら完成です。パーフェクトなサヨクです。この子はひたすら「旧日本軍のアクジ」を犬のようにまさぐり探し出し、いかがわしい「証言」とかを嘘であるとかないとか全く検証せずに大声で喚きたて、そういう自分の有り様に酔いしれる人間になります。つまりサヨクですね。

 こういう人間を生み出すことが平和教育なのです。

(4)決して話してはならないこと。
 子供たちをサヨクに退化させるにあたって以下の事柄は決して話してならないことです。隠蔽しましょう。

* 支那事変当時において最も支那人を殺したのは支那人であること。
 支那事変当時、支那は国民党軍、共産党軍、日本軍の三つ巴の状況にありました。国民党軍、共産党軍は清野作戦その他で大量の支那人を虐殺しまくりました。
* そもそも支那事変そのものが支那人による日本人虐殺事件に端を発すること。
 通州事件です。数百人の日本人が支那人により虐殺され、それが支那事変の発端となりました。
* 支那は延々と嘘を捏造しつづけていること
 「ナンキンダイギャクサツ」に限らず支那政府当局はあらゆる嘘を一貫してつきつづけていることも隠蔽しましょう。毛沢東が行った「大躍進」政策により支那人の餓死者数(数千万人といわれる)のみが大躍進したなか、支那政府当局は「大躍進」政策が大成功をおさめていると支那国民に喧伝をし続けたことも隠蔽しましょう。支那政府が他の社会主義国家同様に法螺吹きであることは、隠蔽しましょう。「ナンキンダイギャクサツ」の信憑性に疑問を感じる学生が出る可能性があります。
* 支那は今現在も満州チベットを植民地支配していること
 支那チベットを植民地支配し、大量の虐殺を今も行っています。支那の暴挙は完全に隠蔽しましょう。
大東亜戦争は欧米列強からのアジア諸国の解放を目的とし、かつ成功した戦争であること
 シンリャクがモクテキだあと繰り返し刷り込みましょう。日本軍がワルイコトのみに終始したかのように吹き込みましょう。
 カンボジアなど多くのアジア諸国大東亜戦争における日本の戦いを評価していることは絶対触れてはいけません。日本軍が多くのアジア諸国に軍備を教え西欧列強と戦う技術と気概を教え、それが最終的にアジア諸国の解放に至ったことも隠蔽しましょう。中でも日本軍兵士がインドネシア独立戦争に協力し、解放にいたったことは絶対隠蔽しましょう。

追記:
 おや、そちらに「こんなこととっくに知ってたし、もうやってるよお。」などとおっしゃる先生もおいでです。頼もしい限りです。
 誰ですか!「こんなこと人としての良心があるからやりたくない。」「祖先を悪者と断罪するなど、人間として絶対やってはならないことだ。」「日本のみの軍事行動をこき下ろすのはヘンだ。」「思い上がりもはなはだしい。」「あまりにも民主制を無視している。」などと言うのは!

 今の人たちの意見にセンサイの人!(挙手なし)ほうら、みなさい。○さん、△さん、あなたたちはアジアの人たちのカナシミがワカラナイのですか!
 だいたい何ですか。民主制を無視しているなどと。ニホングンのハンザイネタで子供たちを洗脳するのは、職員会議で先生方がハナシアイをやって了承した結果です。先生の間でハナシアイをやった結果の議決だからミンシュテキなのです。選挙で選ばれた代表者などほうっておけばいいのです。我々お役人様の間でハナシアイをやって決めればミンシュシュギなのです。

 とにかく、

(1)捏造写真などによる贖罪意識の刷り込み(「日本軍→強姦虐殺」の刷り込み)
(2)ハンセーとシャザイをすれば許してもらえるとそそのかす(支那の腰巾着化)
(3)サヨクであることが生きがいになったら完成

 の手順ですね。
 何々、父兄からの文句が恐いですと?忘れてはいけません。子供(人質)を握っているんですよ。内申書(成績)も含めてね。たいていの父兄は子供をイジメぬけばネを上げます。安心して洗脳教育にはげみましょう。』 (2004/10/13 13:30)

# 死ぬのはやつらだ 『
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20041010
映画「チーム・アメリカ」には日本の天皇を馬鹿にするシーンがあるそうですね。
これはアメリカの映画人だからこそ出来た快挙ではないでしょうか。
いったいどんなシーンになっているのか、本当に楽しみです。

ところで南京大虐殺天皇にも責任があったのです。
ちょっと資料を貼らせていただきます。
_____________________________________________________________
南京事件の責任者だった皇族!】上海派遣軍司令官 朝香宮鳩彦王中将

資料―皇族出身の陸海軍人 これを読むと、多くの皇族が軍人として従軍しているのがわかる。陸軍が28名、海軍が21名、合わせて49名の皇族が従軍しているのだ!
そのなかには、敬愛する崇仁親王のような素晴しい方がいらっしゃるが、その一方で、とんでもない人もいる。昭和天皇の叔父にあたる朝香宮鳩彦王中将である。
支那方面軍司令官 松井石根大将の下の軍司令官であった朝香宮中将。彼が指揮した 上海派遣軍 こそ、*南京にて略奪・強姦・虐殺の限りをつくした部隊であった。* 東京裁判では、当事者として戦犯となるはずであったが、合衆国政府の方針である「天皇を戦犯としない」という最高方針が決定し、対象とはならなかったのである。
南京での暴虐を知った陸軍は、その後の人事考課において「南京虐殺」に参加した部隊に対し、明らかにハンディーを負わせている。
支那方面軍高級指揮官の人事考課 によれば、朝香宮は兄弟の東久邇宮と比べると、陸軍内部で干されていたことがうかがえる。
結局、東京裁判に於いて「南京虐殺」の責任を負わされ処刑されたのは、朝香宮の上司であった松井大将であった。松井は48(昭和23)年12月9日、死刑確定後、巣鴨プリズンにて東大仏教学教授の花山信勝氏にこう語っている。
南京事件はお恥ずかしい限りです。…私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
南京事件)慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、この後でみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長のごときは『当たり前ですよ』とさえ言った。
従って、私だけでもこういう結果(死刑)になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味でたいへんに嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
花山信勝『平和の発見』朝日新聞社)より
________________________________________________________________』 (2004/10/13 13:49)

# ブサヨ 『なんだ結局圧力に屈したのか、本宮も情けない
「歴史わい曲」との抗議受け本宮ひろ志さんの漫画休載 南京大虐殺めぐり集英社[10/13]

 「週刊ヤングジャンプ」で連載中の漫画「国が燃える」(本宮ひろ志氏作)に
登場した南京大虐殺の描写に対し、地方議員グループが「歴史を歪曲(わいきょ
く)している」と抗議したのを受け、発行元の集英社は13日、28日発売号か
ら当分、この漫画を休載することを明らかにした。
 集英社は「描写の参考にした写真は『ねつ造された』との指摘もある。そうい
う資料を使ったのは不適切だった」としている。
 「国が燃える」は昭和初期の官僚の半生を描いたフィクションで、2002年
11月から連載。9月16日発売号と22日発売号で、旧日本軍が南京で市民ら
を殺害する様子を描いた。

ttp://flash24.kyodo.co.jp/?MID=SBS&PG=STORY&NGID=soci&NWID=2004101301000986』 (2004/10/13 13:55)

# yuya 『このゲーム最高!w http://games.tom.com/script/2003/mini/mini/20031010_guizi.zip』 (2004/10/13 13:56)

# ブサヨ 『ウヨクの勝利宣言マダ〜〜〜?』 (2004/10/13 13:58)

# ブサヨチャンネル桜より
http://www.ch-sakura.jp/bbs_thread.php?ID=68803&GENRE=sougou
チャンネル桜開設準備室 2004-10-12 19:12:36  No.73634

>皆様へ

一歩前進のお知らせです。

本日、午後五時、集英社の編集長と会われた西村修一氏からの連絡によりますと、
集英社ヤングジャンプ編集部は、再来週から、本宮ひろ志氏の「国燃ゆる」の連載を
(一時)中止することに決めたそうです。

おひとりでこの集英社問題の抗議活動を開始した西村修一氏と「集英社問題を考える地方議員の会」
(代表 犬伏大田区議・事務局長 松浦杉並区議)の約五十名の地方議員の皆さん、それぞれの立場で
抗議活動を展開なさった全ての皆様の努力に、敬意を表したいと思います。

日本文化チャンネル桜では、皆様と共に、この問題を報道してまいりましたが、これからもNHK・民放の取り
上げない報道も、勇気を持って行っていきたいと考えております。

この知らせは報道ワイドの終わりにも、伝えられます。

      日本文化チャンネル桜 編成部』 (2004/10/13 14:06)

# 右翼者 『連載打ち切りというのは本当か?

思っていたよりも抗議が多かったんだな。
てか、あれだけ捏造のハッキリした証拠があったんじゃ仕方ないな。

でも、俺としては不買運動を1年は続けるよ。

それから最後の掲載でとんでもない左巻きの漫画が掲載される悪寒がする・・・・
どうせ終わるんだから書き捨てに出来るわけだからな』 (2004/10/13 14:38)

# ブサヨ 『↑打ち切りじゃなくて休載。再開したとしてもすぐに終了でしょうが…』 (2004/10/13 15:00)

# 資料貼ります 『
1938年1月3日上海発ニューヨークタイムズ
「元シナ軍将校が避難民の中に−大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに
南京の金陵大学に、避難民救助委員会の外国委員として残留しているアメリカ人教授達は、
逃亡中の大佐一命とその部下の将校6名を匿っていたことを発見し、心底当惑した。
実のところこの教授達は、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力のある地位につけていたのである。
この将校達は、シナ軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。
彼らは建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台から外した機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、
それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちの物であると白状した。
この将校達は、南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女達を暗闇に引きずり込んで、
その翌日には日本兵が襲った風にしたことを、アメリカ人達や他の外国人達のいる前で自白した。
この元将校達は逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、恐らく処刑されるであろう。」』 (2004/10/13 15:31)

# liufeng219 『それは日本軍の流したプロパガンダ記事ですよ。』 (2004/10/13 15:37)

# 資料貼ります 『liufeng219さん当時日本と仲が悪かったメリケンのメディアですが…
プロパガンダという証拠を見せてください。間違ってたら訂正しますので。』 (2004/10/13 15:49)

# liufeng219 『仲がいいか悪いかは関係ないです。南京陥落に際して海外メディアは南京を退去させられ、民間人の出入りは封鎖されていました。よってその記事は日本軍の情報提供によって書かれたわけですね。一方、安全区委員側に対応する記録がないとすれば、記事に書かれた内容は日本軍の創作であると見なされるわけです。』 (2004/10/13 16:11)

# 資料貼ります 『liufeng219さん
プロパガンダという証拠を見せてください。
         ~~~~~
君のはただの推理推測。ソースも付けてねw』 (2004/10/13 16:18)

# ちょっと失敗 『liufeng219さん
プロパガンダという証拠を見せてください。
         ~~~~~
君のはただの推理推測。ソースも付けてねw』 (2004/10/13 16:21)

# liufeng219 『物的証拠や文献史料でも求めてるのかい?そんなもんプロパガンダ相手にゃ無力でっせ。』 (2004/10/13 16:27)

# 馬鹿ですか? 『>liufeng219 『物的証拠や文献史料でも求めてるのかい?そんなもんプロパガンダ相手にゃ無力でっせ。』』 (2004/10/13 16:34)

# celts 『え〜っと、liufeng219さんの言ってることはまとめると「プロパガンダを証明することは不可能だが、自分には見分けられる」ということですね。どうやら氏は「神の視点」をお持ちのようです。』 (2004/10/13 16:36)

claw 『ていうか、そもそも「資料貼ります」がソースを明らかにしていないな。それがNYTの記事だというなら、英語の原文があるはずだよなあ(´∀`)
どこからコピペしたの?』 (2004/10/13 16:39)

claw 『それにしても「資料貼ります」は、NYTが当時、南京大虐殺を報じたことを知らないか、それとも必死で隠しているのか、どっちなんだ?w』 (2004/10/13 16:48)

# hokusyu 『http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/higasinakano126.html
直リンはあまりよくないのかもしれないけど。
否定派の言っていることに新しいものはない。だから、ちょっと調べればすぐにこういうものが見つかるわけですね。』 (2004/10/13 17:01)

# celts 『たとえばダーティン記者の記事ですか?>NYT
http://www.history.gr.jp/nanking/dathin.html
こちらは産経新聞社の古森記者によるダーティン氏のインタビューです。どう読むかは読んだ方にお任せします。』 (2004/10/13 17:08)

# liufeng219 『あ、資料貼りますがしどろもどろになるのをいじりたおすのかと思って黙って見てたけど、もうそれ出しちゃうのですね。それではこちらもご参考に。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3924/article/ousinrin.htm』 (2004/10/13 17:10)

# 右翼者 『
自由主義社会」を守れ!(@∀@)キャンペーン」は
「左翼の力を結集して」の言葉が抜けてるぞw >自称平和主義者/ブサヨclaw』 (2004/10/13 17:15)

# 馬鹿ですか? 『<<自称ワルclawと信者の愉快な語録>>

                • -

1/ 『さあ、悲鳴を聞かせてくれよ(@∀@)』claw
2/ 『さあ、追い詰められた「南京大虐殺なかった」信者が、いま必死でコピペするネタを探しています。しかしネタ切れかあ〜っ?!』claw
3/ 『ネタ切れでしたあぁ〜っ!!!残念!! 「南京大虐殺なかった」信者、ネタ切れでナミダ目!ナミダ目です(@∀@)か・わ・い・そ・う〜っ!!!』claw
4/ 『明日はどんな自爆テロで私たちを楽しませてくれるのでしょうか?!楽しみです、めっさ楽しみです、というところで、実況中継を終了させていただきます。また明日!チャーオー!!!(@∀@)』claw
5/ 『偽者さん  必死の叫び声聞かせてくれwwwwww 必死必死必死〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜wwww』 dox
6/ 『物的証拠や文献史料でも求めてるのかい?そんなもんプロパガンダ相手にゃ無力でっせ。』 liufeng219

                • -

次のネタまだ〜〜〜〜?』 (2004/10/13 17:15)

# liufeng219 『サルでも分かるように説明すると、一方の言い分を有利に裏付けるものとされ、なおかつそれ自体に根拠がなく真偽不明の情報をプロパガンダと見なしております。お分かりですよね?』 (2004/10/13 17:34)

# berry 『
結局、左翼な人たちはいいかげんな2次、3次情報しか知らないわけですね。
ちょっと調べればすぐにこういうものが見つかるわけですか。

これを見ると、誰が見ても「南京大虐殺」などというのは大嘘だと理解できるというものですね。
celtsさん資料をありがとうございました。

http://www.history.gr.jp/nanking/dathin.html
南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談
ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏
古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から)

                                                                                                                                                              • -

 ラホーヤはカリフォルニア州軍港都市サンディエゴから北へ、車で30分足らずの美しい海岸の町である。
 太平洋を眺望するすばらしい景観に加えて、1年を通じての温暖な気候のために全米でも有数の保養地になっている。
 ティルマン・ダーティン氏のこじんまりとしたアパートは、そのラホーヤの町を貫く大通りからほんの少しだけはずれた一角にあった。
 からりと乾いた快適な風が吹きぬけるので真夏の太陽も苦にならない。
 そこここの家やアパートに付属するプールが明るい日差しをあび、キラキラと光る。
 ダーティン氏のアパートは地味な3階建のビルの2階にあった。
 ベルを鳴らすとすぐにドアが開き、思ったより小柄な老人が立っていた。
 
 ティルマン・ダーティン――1937年(昭和12)年12月、ニューヨーク・タイムズの若手記者として日本軍の南京占領の模様を一部始終目撃し、「南京虐殺」の第一報を全世界に向けて伝えたジャーナリストである。
 彼は南京の陥落時に現地にいた欧米のわずか5人の報道陣のうちの1人、貴重な歴史の目撃者となった。
 南京をめぐる日中両軍の攻防から日本軍の占領後に市内で起きたことまでを、シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボルド・スティール記者とともに世界に向けて最初に報道したのだった。
 ダーティン記者の南京陥落後の報道は、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日付けと38年1月9日付にそれぞれ掲載された。
 これらの記事はのちに南京事件についてのどの報告でも書物でも必ず引用されたり、言及されたりしている。とくに中国側が後日、主張するような大虐殺が南京で実際にあったか否かという議論では、どちらの立場をとる側もダーティン報道を貴重な資料として欠かさずに使っていた。その点でダーティン氏は、南京事件解明のカギをも握る歴史の証人とされてきた。日本の戦前の昭和史全体を通じても、同氏は一種の“伝説の人物”扱いをされてきたのだった。
 私はその彼が高齢ながらもなお健在であることを最近、知った。住所と電話番号を探し当て、さっそく電話で会見を申し込むと、歯切れの良い「イエス」という答えが返って来たのだった。
 気難しい人物だというウワサを聞いていたものの、紹介者の名をすぐあげたことがよかったためか、電話ではきげんよく応答してくれた。
 中国の仏像や絵画がぎっしりと飾られた居間で向かい合って座ったダーティン氏は、81歳という年齢にもかかわらず、きわめて元気そうにみえた。それになによりも話しの口調がしっかりし、語る内容も明確で、老いをほとんど感じさせなかった。
 とはいえ、もう51年以上も前の出来事をくわしく語って欲しいというこちらの注文である。ダーティン記者自身の書いた記事のみならず、当時の競争相手だったスティール記者の記事のコピーまでを、目の前に並べての回想談となった。
 私はまず若きダーティン氏が南京に駐在するにいたった経緯についてからインタビューを始めた。
 
 ――ニューヨーク・タイムズの中国特派員にはどうしてなったのですか?
 
 「テキサス州西部で生まれ、同じ州内のフォートワースの大学を卒業したあとサンアントニオとヒューストンの新聞でそれぞれ短期間、記者として働きました。だが世界をみたいと思った。とはいえカネがない。友人といっしょに貨物船に乗りこんで働き、旅をすることに決めました。1930年のことでした。」
 23歳のダーティン氏は船内の掃除係となって船底で眠りながらパナマ運河を抜け、太平洋を渡る。
 日本の横浜港に着くと英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』に働き口あることを知った。友人とコインを投げて決めた結果、友人がその職を得る。
 船は日本から中国へと航行し、上海に入港した。

南京占領の3ヶ月前から

 「そのころには船内での肉体労働にすっかり嫌気がさして、とにかく上海で陸にあがることに決めました。当時はパスポートもビザもありはしない。そしてすぐに上海の英字新聞『シャンハイ・イブニング・ポスト』に記者としての職を得ました。
 そこで2、3年働いたあと『チャイナ・プレス』という新聞に移り、やがて編集長となったのだけれども、その間、ニューヨーク・タイムズにもストリンガー(通信員)としてときどき記事を書くようになりました。
 正規の上海特派員がポストをあけるときに私がカバーしたのです。そのうち1937年の夏となり、日中戦争が起きて、ニューヨーク・タイムズは正規の特派員がもう一人、緊急に必要となり、私が採用されたわけです。
 
 ――その年の8月に日本軍が上海周辺で中国軍に対する総攻撃を始めたわけですね。
 
 「ええ、それで私はすぐ先輩のジャック・ベルドン記者と車に乗り、上海からずっと南に下り、杭州や南京方面へと道路が分かれる分岐地域まで出かけて、戦闘の模様を取材しました。その後、間もなく私は南京の拠点にして日中戦争を報道するようになったのです。日本軍が南京を占領したのは1937年12月ですから、その3ヶ月ほど前から南京にいたことになります。」
 
 ダーティン氏のこのへんの記憶はきわめてしっかりしているようだ。
 くすんだ青い目のジャンパーを着て、くつろいだ姿勢ながらも、きちんとよどみないペースで話をすすめていく。
 さて、1937年11月、上海周辺の中国軍戦線を突破した日本軍は、西北3百キロほどの首都、南京をめざして急スピードの進撃を開始した。
 ダーティン記者は南京の側からその経緯を追っていた。
 
 ――上海方面から進撃してきた日本軍と中国軍の南京以東での戦闘ぶりはどうだったのでしょうか。
 
 「中国軍は南京城内に立てこもって日本軍を撃退するという作戦をとり、上海方面から南京への日本軍進路にあるすべての建造物を焼き払って退却しました。敵には何ひとつ残さないという、中国側が焦土作戦とよぶ手段です。住宅からその他の建物まで、いっさいすべて、遮蔽物を残さないために樹木まで切り倒して撤退するのです。」
 
 ――そういう地域の住民はどうなったのですか。
 
 「大多数は戦闘の始まる前に避難しました。南京の方向へと逃れ、市内に入った避難民もかなりいました。漢口のほうにまで逃げていった民間人もかなり多数いました」
 
 ――上海から南京近郊に到達するまでの過程で日本軍が中国側の捕虜や民間人を多数殺したという話しは当時あったのですか。
 
 「いや、それはありませんでした。中国軍は日本軍に正面から戦いを挑まず、撤退していたし、地元の住民もみな避難していたからでしょう。
 私は当時、虐殺に類することはなにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。虐殺は日本軍が南京を占領してからなのです」
 
 ダーティン氏のこの言葉は「上海から南京までの間で日本軍による大規模な殺害や略奪があった」という一部の説とはくいちがっている。
 しかし同氏は南京では日本軍の虐殺があったと明言する。その点は同氏は南京陥落についての第一報、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日付の記事にもはっきりと書いている。
 「南京で日本軍が恐怖をまき散らすなかで民間人も殺される」という見出しのこの記事は、「日本軍の無差別残虐行為と略奪」があったとし、「中国軍捕虜の大量処刑」と「女性や子供を含めての民間人の広範な殺害」とを伝えている。

処刑を見ていた将兵たち

 ――さてまず中国軍の捕虜に関してですが、南京を守っていた軍隊の人数はそもそもどのくらいだったのでしょうか。
 
 「唐生智将軍の指揮下に約5万人だったと思います。
 日本軍の南京総攻撃が始まる直前、私は市内をあちこち走りまわって防衛軍の状況を調べました。
 市内には軍隊があふれていた。唐生智司令官にインタビューして「城壁内にこれだけの部隊を入れて守る作戦はわかったが、日本軍は当然、城壁を包囲するから、もし負けた場合にはどうやって撤退するのか」と質問したのものです。
 唐将軍は「われわれは死ぬまで戦う決意だ。撤退は天に向かってのルートだけだ」と豪語していました。
 しかし実際には将軍は日本軍の一部が城壁を越えてすぐ、部下には何も告げず、市外へと逃げたわけです。」
 
 ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも中国の南京防衛について、合計16個師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と推定している。
 同記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について日本軍が南京への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の12月15日までに3万3千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道している。
 
 ――捕虜の処刑は実際に目撃しましたか。
 
 「はい。私が南京を去ることになる12月15日にも城門のすぐ外の揚子江の水ぎわで日本軍が機関銃で中国軍の捕虜を射殺しているのを見ました。
 捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺されるのです。
 そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の連射で殺されるのです。この処刑が進行している間に別の日本軍の将兵が近くにたむろしてタバコを喫ったり、大声で話し合っていた光景をいまでもよく覚えています」
 
 ――中国の捕虜の側は抵抗とか逃走をまったく試みなかったのですか。
 
 「その捕虜たちが両手を縛られていたかどうかはもう覚えていませんが、さからっても無駄なことは明白でした。
 中国軍は司令官が逃げて、指揮系統が混乱してしまったこともあって、日本軍が城内に入ってからはすぐ抵抗をやめ降伏するか、軍服を脱ぎすてて民間人の群にまぎれこむかでした。
 とても無気力だったのです。軍服を脱いだ軍人達の多くは『安全地区』に逃げ込みました」
 
 『安全地区』(セーフティーゾーン)というのは、外国人の宣教師や教師、医師が中心になってつくった民間人のための避難地域である。
 この地区を管理する委員会では日中両軍にその安全区の尊重を呼びかけていた。
 
 ――『安全地区』には何人くらいが集まっていたのでしょうか。
 
 「私の当時の推定では約10万人だったと思います。
 しかしここにも日本軍が入ってきました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因だといえばいえます。
 そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与えてしまった。
 兵隊ならば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半分タコのようになって体に残っているのがわかるとというのです。
 若い中国の男たちはみな日本軍に調べられ、兵士だと断定されると『安全地区』内でも殺されるというケースがよくありました。
 ただ日本軍も外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるようなことはしなかった。
 市内の他地域での流血にくらべれば、まるでたいしたことはありませんでした。」
 
 ダーティン記者は、南京市内での日本軍による民間人の無差別殺害をも、当時、くわしく報道していた。
 
 「12月15日に南京市内を広範にみてまわった外国人たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老人や子供もいた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道)
 「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明かに背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」(1938年1月9日付報道)

予想されなかった虐殺

 ――日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。
 
 「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
 銃剣を使う場合もあった。
 とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
 ダーティン氏はこうした発言をしながらもとくに表情は変えず、淡々とした口調で語りつづける。
 「南京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような印象を、私は受けました。
 『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺してもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした」
 
 ――どうしてですか。
 
 「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかったからです。
 上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。
 漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。
 南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」
 
 ――南京にいた中国の民間人は虐殺などがあるとは思っていなかったということですか。
 
 「南京の市民や周辺の住民は中国軍にすべてを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が南京を制圧したときには一種の安堵感をおぼえていた人も多かったのです。
 日本軍の占領をあきらめからにせよ、歓迎しようとする市民たちもいたのです。
 それまでの2、30年間も中国の軍閥に支配され、搾取(さくしゅ)され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。
 日本軍でさえ、またやがては去って行く。
 戦闘を終了させたことだけでも日本軍を歓迎してもよいではないか――そんな受け止め方が多かったのです。
 まさか日本軍が民間人を虐殺するなどとはまったく考えていなかったのです。
 もしそんな心配が前からあったなら、民間人はみな市内から逃げていたでしょう。」
 
 ダーティン氏のこの言葉も、「上海から南京への進撃途中に日本軍が中国人を大量虐殺した」という説に疑問符を突きつけている。
 もしそうした虐殺があったならば、南京陥落時に市内に中国民間人が多数、残っていて、歓迎の姿勢さえみせるということもなかったはず、と考えるのが自然だろう。
 では南京市内で日本軍に殺された中国側民間人の数はどのくらいなのか。
 ダーティン記者は12月18日付記事では「数千人にのぼった」と報じている。
 
 ――民間人の死者の数はもう少し具体的に推定はできなかったのですか。
 
 「ええ、数千という以上にはわからないですね」
 
 ――日本軍が攻略した時点での南京市内の総人口はどのくらいだったのですか。
 
 「私が自分の記事で報じたのはたしか50万だったか・・・・・あるいは30万だったか。とにかく近郊からの避難民もかなり流れ込んでいたわけですから・・・・」
 
 ――1937年12月12日付のダーティン特派員電のすぐ下に掲載されている上海発のハムレット・アベンド記者の報道は、南京市内にいる中国民間人の人数が30万人だとしていますね。
 
 「ああ、そうですか。それなら私もきっと30万人という推定をしていたと思います」
 
 ――ダーティンさんの一連の記事を読んでみると、南京市内の非常にくわしい状況が描かれていますが、自分自身での目撃、確認以外にはどんな情報があったのですか。
 
 「まず、中国軍の将兵や司令官にはわりに簡単に接触できました。私は中国語が少しはできたし、車を自分で運転していたから自由に動き、取材できました。
 また中国の外務省の職員もかなり残っていた。
 それからもちろんアメリカ大使館にごく少数だけれども信頼のできる外交官が残っていました。
 イギリスも武官のような立場の職員を残留させていた。また地元の大学のアメリカ人教職員や宣教師たちも貴重な情報源となりました」
 
 ――しかし日本軍はなぜとくに南京だけでそうした虐殺のような行動をとったのでしょうか。
 
 「いくつもの説があります。日本軍の上層部がそういう残虐行為を首都で誇示すれば、中国側を恐怖におののかせ、おびえさせ、蒋介石総統を降伏へと追い込めるのではないかと考えていた、というのがそのひとつです。
 それ以前にも日本の軍閥は『中国の挑発』をきびしく非難し、中国側の理不尽さを訴えるプロパガンダを打ち上げていました。
 中国側に対処するのはとにかく武力と残虐を示すことが最善という考え方があったのではないでしょうか。そういう考え方はなにも日本だけではありません」
 
 ――というと?
 
 「力のことさらの誇示というのは、それまでの1世紀以上も列強が中国に対してとってきた戦術だったのです。
 たとえばイギリスが中国に対しなにかを要求してすぐに得られなければ、砲艦を揚子江に派遣して、都市や町に砲弾を撃ちこんだわけです。
 フランスも同様でした。1900年の義和団事件でも列強が中国に対してとった行動は苛酷(かこく)で残忍でした。
 諸外国に間では中国にいうことをきかせるためには、断固たる実力を行使するのが唯一で最善の方法だ、というのが習慣的な考え方になっていたのです。
 日本もそうした態度をまねていたのではないでしょうか。
 そのほかに日本人は日本社会のなかではきちんとした行動規範を守り、責任感を持っているものの、中国のような外部に出るといっきょにそれらを捨てさる傾向がある、ともいわれていました。なにしろ当時は日本はアジアを支配する神聖な任務があると自称していたのですからね」
 
 ――でも虐殺によっては中国側を屈服はできなかったわけですね。
 
 「ええ、効果はむしろ逆でしたね。日本軍は南京での虐殺で中国側の以後の反抗の士気をかえって高めてしまったと言えます。
 それまでの中国人一般人は別に外国勢力に占領されても、それほどひどいことはなかったから、日本の占領下でもなんとか生きていけるだろう、という態度した。
 しかし南京での日本軍の行動により、日本軍に占領されたらとんでもないことになるという恐怖の念が中国側に広がり、日本軍への抵抗を極端に強くする結果となったのです。中国側が『焦土作戦』をより徹底して進めるようになったのもその結果です。のちに長沙が日本軍に占領されてそうなると、中国側が市街全体をすべて焼き払ってしまったのも、その一例です」
 
 ――当時、そうした日本軍の行動をみて、ダーティンさん自身は日本人に対しどんな感情を抱きましたか。
 
 「もちろんあんな残虐行為をはたらいた日本軍将兵には嫌悪を抱きました。強い怒りを感じました。
 かといって日本人全体を非難するという気持はなかったといえます。
 私自身がそれまでに人間のいろいろな姿を十分にみていたので、一群の人たちの異常な行動からその人たちの民族全体とか国民全体を非難するという気持ちにはならなかったのでしょう。
 日本民族が本来、残虐な性質を持っているなどとは思ったことがありません。
 ある意味では南京での虐殺も私にとってはたまたまそこで起こったひとつの出来事にすぎませんでした。
 なにしろ当時は戦争だったのです。歴史的にみても、この種の虐殺というのは少しも珍しいことではありません」
 
 ――しかしアジアの近隣諸国の間には「南京虐殺」をかつての大東亜共栄圏構想などとあわせて、日本が常にアジア制覇を仮借のない手段でめざそうとする警戒論の根拠にする向きもあるようです。
 
 「それはあまり根拠のない懸念や警戒心だと思いますよ。諸外国のリーダーが日本と競争する課程で使う一種の議論ではないでしょうか。
 たとえば近年、東南アジア諸国の指導者たちが「日本がまたアジアを侵略する」趣旨の発言をしますが、私はそうは思いません。それら指導者たちは自国での政治目的のためにその種の発言をする場合が多いようです」

何人が殺されたのか

 ――当時、日本人との接触はありましたか。
 
 「アメリカから中国への最初の船旅び途中では日本に2週間ほど滞在しました。
 丸の内のYMCAに泊り、日本食を食べ、あちこちを見学して、日本の人にも多数、会いました。
 このとき知り合った日本人たちからはきわめてよい印象を受けたのを覚えています」
 
 ――日中戦争が始まってからはどうですか。
 
 「南京攻防戦の際でも日本軍将兵の中には自制や寛容さをもって行動している人たちもいました。
 私自身、日本軍が市内を占領してすぐ、激しい戦闘のあったばかりの東方の城門で日本軍将校と話をしましたが、その将校がきわめて礼儀正しかったことを記憶しています。
 日本軍と接触した他の外国人たちからも理や情をわきまえているようにみえる将兵に会ったという話を聞きました。」
 
 ――日本軍兵士の残虐行為を制止しようとする将校もなかにはいたのでしょうか。
 
 「いや、私自身は少なくともそういう光景はまったくみませんでした。
 しかし戦後になって南京での行為の責任を問われて中国側に処刑された日本の将軍のひとりが、虐殺をとめようと努めたことを証する証人がいたということは聞いています」
 
 ――しかし捕虜の大量処刑や民間人の無差別な虐殺が力の誇示により中国側を心理的に屈服させるという目的でもしなされたとすれば、それは非人道的な軍事戦術の結果であり、日本軍の個々の将兵がとくに残虐であったことを必ずしも意味しないという解釈も成り立ちませんか。
 
 「いや、わたしは、その両面の面があったと思うのです。
 たしかに南京の日本軍の上層部のどこかで戦術的、政治的な目的のために中国人を無差別に殺すという決定が下されていたような印象が強かった。
 しかしそれを実行した日本軍将兵も非常に残忍でした。殺戮そのものに勢いがつき、多くの将兵がそれに巻きこまれてしまったともいえる感じがしました」
 
 ――日本軍のその種の非人道的な軍事戦略は南京以外ではあまりうかがわれなかったということでしたね。
 
 「日本軍は南京攻略のあと漢口を攻撃して占拠しましたが、私はそのとき漢口にいました。
 その際には無差別とか大量の殺戮というのはまったくみませんでした。
 中国の国民党政権が南京での虐殺を内外に向けて宣伝し、非難していたので日本側も気をつけるようになったのかもしれません」
 
 しかしダーティン氏が目撃して語る「南京虐殺」では軍民あわせてその犠牲者の数はどのくらいになるのだろう。
 すでに述べたように、ダーティン氏の当時の報道は中国側の軍人約2万人が処刑され、民間人数千人が無差別に殺された、と推定していた。
 ただしこの場合の「数千人」というのは英語では特にあいまいな表現である。
 ちなみにダーティン氏とともに当時、南京にいたシカゴ・デイリー・ニュースのスティール記者は1937年12月15日付の同紙の記事で、日本軍により処刑の形で殺された中国軍捕虜の数は「推定するには難しいが、5千人から2万人の間とみられる」と書いている。ダーティン報道と基本的には一致しているわけだ。
 民間人の虐殺については、スティール記者も「大規模で無差別の殺害」であったことを伝えており、犠牲者の数に関してはやはり「数千人」という表現を使っている。
 スティール記者のこうした推定数もダーティン記者同様に12月15日の時点までの報告である。
 両記者とも同15日にはアメリカ海軍の砲艦オアフ号に乗って南京を離れたのだ。
 犠牲者の総数の推定についてはダーティン氏に改めて尋ねてみた。
 
 ――南京で日本軍により戦闘以外で殺された中国の人たちですが、ダーティンさんの当時の報道では軍人の捕虜が2万人、民間人が比較的なニュアンスのある表現にせよ数千人とされていますね。
 
 「ええ、当時、できるだけ数多くの関係者に質問し、自分の体験や見聞も含めて推定した数だといえます。
 質問した相手のなかには日本側関係者もいました。
 中国外務省の職員たちもいました。しかしああした状況下では犠牲者の正確な数を推定することはきわめて困難なのは自明です。周知のように中国側は犠牲者30万と主張しています」
 
 ――ダーティンさんの報道した数字と中国側のその数字とではあまりにも差がありすぎますね。
 
 「すでに述べたように、私が南京にいたのは日本軍の占領から3日目の12月15日までですから、私が報道した数字はあくまでその時点のものです。
 南京占領後、日本軍の虐殺は2ヶ月以上つづいたといわれているのです」
 
 ――中国側のいう30万という数字の根拠についてダーティンさん自身はなにか知っていますか。
 
 「いや、私にはその根拠はわかりません」

今でも残念なこと

 それにしても最初の3日間の数字とはいえダーティン報道の「2万数千」と中国側の「30万」、東京裁判での「20万」という数字の間にはへだたりがありすぎる。
 日本軍が最初の3日間のペースをたとえそのままつづけたとしても、もう捕虜2万を超えてはほとんどいないはずである。
 民間人を「数千」ずつ殺しても毎日、同じペースで1ヶ月も2ヶ月もつづけなければ「30万」には達しない。しかも南京の総人口は30万とか50万とみつもられて状況下で、である。
 
 ――12月15日以降、南京市民が20万か30万人も殺されたとなると、想像もしなかったむごたらしい虐殺が目前で起きているのを知りながら市民あるいは市内の避難民は、別に逃げようともせず、じっとしていたことになりますね。
 
 「それはそうかもしれませんね。私にはそのへんのことはわかりません」
 
 ダーティン氏はそう言葉少なに答えながらも、中国側の「30万」という数字にとくに異をとなえるような発言もいっさい口にしなかった。
 そして逆に私に南京の虐殺を記念して中国側が建てた博物館をみたことがあるかと、問いかけてきた。
 私は「ありません」と答えた。
 
 「私は昨年、妻といっしょに見学しました。結婚50周年の記念旅行の途中でした。その博物館にははっきりと犠牲者の数が30万だったと書かれているのですね。見学にきている人の大多数が日本人なのにはやや意外な感じがしました」
 
 ダーティン氏はこんなことを淡々と語った。
 
 南京以降もダーティン氏はニューヨーク・タイムズ記者として戦争の報道をつづけた。
 戦後も中国で国民党と共産党との内戦をカバ―した。
 重慶とか延安をあわただしく駆けまわった。その後にはニューヨーク・タイムズの中国総支局長となり、短期間ながらも東京支局長の役をつとめたこともあるという。
 特派員生活を回想するうちに話はまた南京報道へともどった。
 
 「それにしてもいま思いだしても残念なのは、南京虐殺の第一報ではシカゴ・デイリー・ニューズのアーチボルド・スティール記者にわずかながらさきを越されたことですね。
 南京からは電報が打てず、2人でいっしょに砲艦オアフ号に乗り込んだのですが、艦内の無線士に海軍の無線で記事を送ってもらえないかと頼んだら「海軍の規則に反するから」と断られたのです。
 私はそれであきらめて、上海に着いてから送ることにしました。
 ところがスティール記者はあとでこっそり無線士に打電させていたのですよ。
 だから彼の記事が2、3日早く掲載されてしまった。でも内容は私の記事のほうが断然よかったという自身がいまでもあります」
 
 ダーティン氏は長いインタビューの最後にこんなことを言って、初めて愉快そうに顔をほころばせた。(文藝春秋89・10より)

                                • -

どうでもいいですけど、どうしてここに集まっている人はみんなこんなに下品な人ばかりなんですか。

>あ、資料貼りますがしどろもどろになるのをいじりたおすのかと思って黙って見てたけど

気持ち悪い。醜い人たちですね。』 (2004/10/13 17:38)

# hokusyu 『てか、その記事でダーディン記者は「虐殺はあった」と証言しているでしょうにw。彼はやはり一記者でしかなかったわけですから、南京で起こったこと全体を把握できるわけではなかったのです。だから、彼が見ていなかったこと、あるいは知らなかったこと=なかったことではなくて、総合的に検証していかなければいけないわけでしょ。こんなこと言うまでも無いことだと思うけど。』 (2004/10/13 17:48)

# hokusyu 『記者の恣意的な質問がすべて不発に終わっているのが面白いw。唯一言質が取れたところは、上海ー南京間の虐殺だけど、そのとき彼は南京にいたわけですから、重要な証言とは呼べないでしょう。』 (2004/10/13 18:03)

claw 『2万人くらいじゃ「大虐殺」とはいえない、って言いたいんじゃないのう?・・・(´∀`)アハハ
このページが「下品」になってるとしたら、そりゃ「騙り」「捏造」「なりすまし」ばっかりやってる「虐殺なかった派」のおかげじゃないのう?・・・(´∀`)アハハ
http://d.hatena.ne.jp/claw/00010114 
http://d.hatena.ne.jp/claw/20041013』 (2004/10/13 18:08)

# 資料貼ります 『 だ・か・ら よく読めばわかるが
ティルマン・ダーティン氏の発言は矛盾が多いの。
ダーティン氏自身も怪しい。』 (2004/10/13 18:08)

# liufeng219 『あんさんは38年1月3日のNYT記事がプロパガンダでないと証明しなきゃならんでしょ。』 (2004/10/13 18:16)

# 資料貼ります 『■岸内閣台湾視察旅行(同行した田中氏の談)
最後は蒋総統との会見である。
蒋介石総統はすでに80歳、口辺に笑みを浮かべ、好々爺(こうこうや)といった感じだ。
(中略)
暫く懇談ののち、団員ひとりひとりが蒋総統の前に進み出て、謝辞を述べ、総統から握手を賜ることになった。
私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
「いつか。」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。
松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。
ふるえ声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、
むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。
私は驚いた。一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。
周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、
〈虐殺事件〉など一言も触れていない。
何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。
それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。
あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、
留学生当時から自分(蒋)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、
ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪(えんざい)で刑死せしめた。
悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。
蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。
周知の通り、蒋はカイロ会議以降連合国首脳会議から除外されて、発言権を失った。
代わってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。
蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、
南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである。
蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く。』 (2004/10/13 18:17)

claw 『>悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。

結局、なにが「申し訳ない」のかの言及はなにもないわけねw
そしてあいかわらずURLは示せない。
そりゃそうだよな。「ソースは2ちゃんねるです」ってか(´∀`)アハハ

さーてみんな、例のページ保存した?
http://www.google.co.jp/search?q=cache:gKPEEsvoLFsJ:sakura777.web.infoseek.co.jp/motomiya-shuueisha.html+&hl=ja
元ページはトンズラしちゃったけど、キャッシュはあるよ。
これからガンガンばらまいていこう。協力よろしこ(@∀@)』 (2004/10/13 18:32)

# 悪魔の証明
史料を検証し提示する義務を持つのは肯定派の方だ。

悪魔の証明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
モノ・行為における存在の有無をめぐって、「ない」ことを証明することは非常に困難である。
これを悪魔の証明(あくまのしょうめい、羅: Probatio diabolica)という。もともと、西洋中世のカノン法用語らしい。

「有ることの証明」は、証拠を提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、その反面、「無いことの証明」は調査範囲が
限定されたケースを除き、立証は事実上不可能である。なぜならば、この世の全ての可能性、或いは森羅万象を
完全に調査しなければならないからである。

ゆえに、公平の見地から立証責任は「ある」と主張する肯定側が負うことになっている。証明できなければ無いものと見なされる。
法学では「推定無罪の原則」がそれに当たる。

もしそうでなければ、例えば「お前は魔女だ」「お前は殺人犯だ」「この世にドラえもんは実在する」などのように、どんなに
無茶苦茶な主張でも主張者がそれを好き勝手に言いつのるだけで、否定する側が「無いこと」を証明しなければならない
という不公平な重荷を背負うからである。

しかし、現実の論争の場では、必ずしもこのことが了解されているわけではない。』 (2004/10/13 18:33)

claw 『▼南京大虐殺論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E8%AB%96%E4%BA%89
>学会の反応
>否定説(九郎注・南京大虐殺の否定説)は歴史家の間では受け入れられる傾向はない。論争がひとまず落ち着いている現在では歴史研究者の間では南京事件の有無を問うことはあまり意味がないという声も聞こえてくる。また一部の社会学や心理学の研究者の間では、「なぜ大衆が非学術的な言述を信用するのか」という研究の対象となっている。

・・・・だふぁふぁふぁふぁふぁ!!!(@∀@)』 (2004/10/13 18:42)

# 早く証明してよw 『clawさん自身の言葉でさ。

史料を検証し提示する義務を持つのは肯定派の方だ。

悪魔の証明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
モノ・行為における存在の有無をめぐって、「ない」ことを証明することは非常に困難である。
これを悪魔の証明(あくまのしょうめい、羅: Probatio diabolica)という。もともと、西洋中世のカノン法用語らしい。

「有ることの証明」は、証拠を提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、その反面、「無いことの証明」は調査範囲が
限定されたケースを除き、立証は事実上不可能である。なぜならば、この世の全ての可能性、或いは森羅万象を
完全に調査しなければならないからである。

ゆえに、公平の見地から立証責任は「ある」と主張する肯定側が負うことになっている。証明できなければ無いものと見なされる。
法学では「推定無罪の原則」がそれに当たる。

もしそうでなければ、例えば「お前は魔女だ」「お前は殺人犯だ」「この世にドラえもんは実在する」などのように、どんなに
無茶苦茶な主張でも主張者がそれを好き勝手に言いつのるだけで、否定する側が「無いこと」を証明しなければならない
という不公平な重荷を背負うからである。

しかし、現実の論争の場では、必ずしもこのことが了解されているわけではない。』 (2004/10/13 18:47)

# うし 『.


↑頭悪そう・・・


.』 (2004/10/13 18:49)

# ブサヨ
>↑頭悪そう・・・
おまえがなw』 (2004/10/13 18:52)

# 右翼者 『

わざわざキャッシュをありがと。
集英社への抗議は続行しなきゃいかんからね。単行本の修正もあるし。
http://www.google.co.jp/search?q=cache:gKPEEsvoLFsJ:sakura777.web.infoseek.co.jp/motomiya-shuueisha.html+&hl=ja

腐れ左翼どもの結束力を見せてみろよ
クソサヨのおまえの力で何人が動くか楽しみだな。>claw

まあ、ここに集まってるクソサヨも、本当は面倒で何もしないんだろうがw』 (2004/10/13 19:00)

# liufeng219 『無かったと主張するためには、あったという主張の根拠をくつがえすだけでいいし、それ以外に方法はないんだよ。それをしないで悪魔の証明をふりかざしても無意味。その言葉の意味が分かってないことが露見するだけですよ。』 (2004/10/13 19:04)

# liufeng219 『-


かつてドラえもんは存在したか?
研究者:「かつてドラえもんは無かった。なぜなら当時の技術では不可能だったからだ」
左翼:「かつてドラえもんはあった。なぜなら中共はそう言っているからだ」

  • 』 (2004/10/13 19:18)

# Nu 『まあ間違いなく言えることは、Clawさんの予測は元FBI捜査官のプロファイリング並みに当たりませんね・・・』 (2004/10/13 19:37)

claw 『>かつてドラえもんは存在したか?

大人:
「漫画だろ?」
子供:
「漫画だよ」
常識人:
「かつても何も、存在したことはないよ。そりゃ設問そのものがヘンなんだ」
非常識な「南京大虐殺なかった」派のなりすまし厨:
「かつてドラえもんは存在したか?
 研究者:「かつてドラえもんは無かった。なぜなら当時の技術では不可能だったからだ」
 左翼:「かつてドラえもんはあった。なぜなら中共はそう言っているからだ」」』 (2004/10/13 19:38)

# liufeng219 『>研究者:「かつてドラえもんは無かった。なぜなら当時の技術では不可能だったからだ」
ワロタ。まともな科学者なら実在の痕跡がないことを説明するだろうね。「当時の技術では不可能」っていかにも南京虐殺否定論者が言いそうなバカ発言だわ。当時の技術なるものをどうやって証明するというのやら…(笑)』 (2004/10/13 19:41)

# 名無しさん 『_
>よくわかりませんが、それを私がしていると言いたいのですか?

「現状では進展が全くないのであれば違う手を考える。だからメールを出して直接問い合わせてくださいと言っているのです」
この一文を無視しないでください。
進展が全く無いのに、同じ内容の書き込みを続けるのは貴方にとっては当然の行為だというのであるならば、それはテロの一種ではないのですか?
(なんて書き込みもまた無視するのでしょうね)』 (2004/10/13 20:10)

# うしし 『>かつてドラえもんは存在したか?



例えがバカ丸出しですwww』 (2004/10/13 20:18)

# うし 『
↑私は頭悪いです』 (2004/10/13 20:22)

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」