永遠にゼロ 〜百田尚樹『永遠の0(ゼロ)』について〜
この際だから百田尚樹という作家について思うところを書いておこう。ほんとは書きたくないんだけど・・・というのは、ある作家を批判するためには、その作家の本を読まなきゃならないじゃないですかw たとえどんなにその小説がつまらなくても(@∀@)
百田尚樹『永遠の0』については、刊行された当時から存在は知っていたが、読む気にならずに手を出しませんでした。これまでにも特攻を扱った小説は数多くあるが、だいたいどれも同じパターンなんだよね(@∀@)「特攻は愚策だった。しかし特攻隊員は高潔だった」ってw
『ゴー宣戦争論』『俺は、君のためにこそ死ににいく』『ザ・ウインズ・オブ・ゴッド』『靖国への帰還』など、 「高潔な特攻隊員」物語は枚挙にいとまがない。そして退屈だ。坂口安吾の時代から何も進歩がない。
▼坂口安吾『特攻隊に捧ぐ』
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45201_22667.html
こんな旧態依然な特攻ものを読むくらいなら、「特攻の拓」を読んでたほうがマシ。
『永遠の0』が出たときも、「あーまた『特攻はダメだが特攻隊員は立派』小説なんだろうな(@∀@)もういいよおなかいっぱい」と思って読みませんでした。今回、いちおう最初から最後までブックオフで立ち読みしたら、やっぱり予想通りでうんざりしたw
だいたい百田尚樹は何を考えて『永遠の0』を書いたのか。ぶっちゃけ筑紫哲也が特攻隊員をテロリストよばわりしたのを指弾したかったのだろう。
http://bit.ly/12kp8TO
確かに筑紫もおかしい。「特攻隊員とテロリストを比較するなんて、テロリストに失礼」という発想はなかったのかと(@∀@)
ところで、百田尚樹は知らなかったのかもしれないが、特攻隊をテロとみなしたのは筑紫が最初ではない。
▼「神風特攻隊第一御盾隊は機体の日の丸を塗りつぶして国籍不明機として攻撃しましたが、これはまさしくテロでしょう」
(『零戦よもやま物語』硫黄島の整備兵による)
また、これも百田尚樹@hyakutanaokiは知らなかったのかもしれないが、「1944年の大海指四三一号は特攻について明記しておらず、特攻は天皇の裁可を受けた正規の作戦ではないという意味でテロではないのか」という理屈もある。
http://okwave.jp/qa/q4762184.html#answer
ありていにいえば、百田尚樹@hyakutanaokiは、小沢郁郎『つらい真実 虚構の特攻隊神話』
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060914/p1
などの著作が明らかにしてきた特攻の全体像の一部を隠し、「特攻隊員は高潔だった」というイデオロギッシュな物語を書いたということになるな(@∀@)
そんなわけで、『永遠の0』みたいな小説を「純真な少年たち」wが読んだとしたら、どんなことがおこるのか・・・たぶんこうなる。
▼「子供たちに特攻隊の話をした結果→」
http://military38.com/archives/26612038.html
みなさん、もはやいつでも在日米軍基地に特攻可能ですね(@∀@)
そうそう、『永遠の0』では、慰安婦の話もチラッと出てくる。でもおかしいんだよ(@∀@)彼女たちはなんで「慰安婦」と呼ばれてるんだろう?皇軍では「パンパン」または「ピー(中国語で女性器の意味)」と呼ばれていたはずだ。
また、作中で「ライフジャケット」という言葉が出てくるが、当時の呼称は救命衫(さん)、またはカポックだ。このへんのワキの甘さも痛い。
というわけで、百田尚樹『永遠の0』については、考証がぬるくて視野が狭められた、旧来型の「特攻は愚策だが特攻隊員は高潔」物語だというのがわたしの判断です(@∀@)こういう物語で泣ける人はケータイ小説を読んでも泣けるのでしょうから実に経済的でうらやましい。
ところで『永遠の0』では、「特攻隊員は立派だったが、戦後の人間は道徳を失って云々」というお説教が出てくる。(「戦前がそんなに道徳的だったんなら、なんで特攻みたいな愚かしい作戦が立案されるのか」という矛盾がありますが、ここではおいとく)・・・しかし、「私を捨てて公を生かそう」とする特攻隊員の「道徳」は現在も生きているよ。ブラック企業で過労死する企業戦士たちの中に(@∀@)
・・・今さっき、『永遠の0』は、ぜひブラック企業として名高いワタミの社員教育の課題図書にすればいいのに(@∀@)という冗談を思いついたのですが、全然シャレになってませんでした。
▼渡邉美樹オフィシャルブログ 百田尚樹氏「永遠の0(ゼロ)」を読んで
http://ameblo.jp/watanabemiki/entry-10771954191.html …
ワタミは現代の特攻隊だったんだよ!「なんだってー!?」(@∀@)
・・・ということは。
特攻隊員という題材を現在に再生しようとするならば、百田尚樹@hyakutanaoki『永遠の0』のような古い物語ではなく、
「自分の権利を主張することができない人間」
「自分の権利を主張するなら死んだほうがましだと思い込まされている人間」
の物語を描くべきじゃないんだろうか。
そもそも特攻隊員は本当に「高潔」だったのだろうか?
実は「能力がなかっただけ」なんじゃないでしょうか? 明らかにおかしな命令に対して、軍事的にもまったく意味のない「特攻」という命令に対して、精神的・論理的に抵抗しぬく能力がなかっただけなのでは?
この「抵抗能力の欠如」こそが、第二次世界大戦から68年たった現在においても、「過労死」や「ブラック企業」や産業事故・原発事故を生み出しているのではないでしょうか?
ここで、『永遠の0』とは対照的な作品として、横山秀男原作の少年マガジン版『出口のない海』http://amzn.to/11IlLXf をあげておく。特攻という異常な作戦を兵士が受け入れてしまった理由を、ある兵士が「教育が間違っていた」と痛恨の思いで語るシーンがある。
考えてみれば、百田尚樹『永遠の0』の言う「特攻隊の道徳」は、いまや日本中に蔓延している。日本人の「多数派」は、TPPや原発推進や消費税増税や労働規制緩和が自らに破滅的な結果をもたらすにもかかわらず、自民党に投票するか棄権しているではないか。
そんな自虐的な精神にミチミチた現在の日本だから、百田尚樹の古風な特攻小説が売れるのも当然といえる。ちなみに百田氏の文庫の近刊は『風の中のマリア』だ。スズメバチの「帝国」で、命がけで働き蜂をやっている「マリア」の物語。「なんだってー?!」(@∀@)
『風の中のマリア』て、なんで日本の蜂なのに「マリア」なのか。まあ「愛国者」を任じていても実は白人コンプレックスから抜け出せない作家は昔からいるので(矢野徹とか)それはいいけど、「特攻隊員の道徳を見習え」の次は「帝国主義の働き蜂を見習え」というわけか。文庫巻末の解説で養老武司が「虫は『帝国のために』とか考えないよ」などと書いているのは、ま、言わずにはおれなかったのだろう。
最後に、百田尚樹『永遠の0』に決定的に欠けている視点として、「抗命権」というものを挙げておく。人間の良心に照らして間違った命令、人道に反する命令に対して、軍人がそれを拒否する権利のことだ。
ナチス時代の教訓から、抗命権はドイツでは認められている。
http://chomon-ryojiro.iza.ne.jp/blog/entry/816888/
だが日本の自衛隊にはありません。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2009/0817.html
基本的人権としての「抗命権」の思想こそ、結局は抵抗することができず死に追い込まれていった特攻隊員の死を無駄にしないために、いま必要なものではないのか?
過労死という特攻労働を永遠にゼロにすることが、特攻隊員たちへの最大の鎮魂であろう、と思う。
百田尚樹『永遠の0』は12月に映画版http://www.eienno-zero.jp/index.html が公開される。年末年始に縁起でもない「特攻隊の道徳」が称揚されるだろう。だが、愛するものを本当に守りたいなら、特攻やサービス残業で死ぬな、抗命すべきである。(@∀@)
▼靖国問題Q&A−「特攻記念館」で涙を流すだけでよいのでしょうか−№1【内田雅敏弁護士著】
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/b2154150a8ea839bc0c495d4521cf2b2
▼朝鮮人特攻隊―「日本人」として死んだ英霊たち (新潮新書)
http://www.amazon.co.jp/dp/4106103427/
▼特攻隊員の遺書
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/5410/isyo/ryoushin_isho.html#
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/