・・・「首相をはじめとする政府閣僚は靖国神社に公式参拝すべきでない。なぜなら、それは侵略戦争のシンボルだから」・・・という批判を比較的よく聞く。よく聞くのだが、それは批判としてどこまで普遍性を持つのか。もちろん、私も靖国は侵略戦争のシンボルであり、それどころかそれを促進する存在であったと思う。しかし、「つくる会」やその支持者のように、日中戦争〜太平洋戦争を「祖国防衛戦争」「やむをえない戦争」と言い張る人々には、その批判は痛くも痒くもないのではないか?
「靖国神社=侵略戦争のシンボル」という批判は、「つくる会」や靖国神社の信者に対しては、たいして打撃を与える事ができない。むしろ議論は「水掛け論」に引きずり込まれるだろう。
ところで、彼らに泣き所がないわけではない。
彼らにも、「コレを指摘されると、痛くてたまらん」というポイントがある。そこを攻めろ!と、いつも思うのだ。
それは、「ファシズムを美化し、支持するのか?それとも自由と民主主義を支持するのか?」という論点である。
・・・靖国神社に関して言えば、それはまぎれもなく大日本帝国型ファシズムの思想的バックボーンであったし、当時のファシズム体制をいまだに美化している人々にとってのサティアンそのものである。靖国神社はかつて、兵士やその家族を「天皇陛下のためにポアされて戦場で死ねて、よかったね、よかったね、よかったね・・・」と洗脳するために使用されたし、いまだにその洗脳が解けていない人々も少なくない。それはたかだか、130数年の歴史しか持たない新興宗教にすぎないのだが、そんなものを「日本の伝統」と思い込まされているのだ。
・・・そして「つくる会」といえば、例の歴史教科書であるが、これを読むたびに笑いを禁じえない。「つくる会」教科書は、「ソ連のような共産主義、ナチス・ドイツのようなファシズムという二つの全体主義が、世界に大きな悲劇をもたらしたことを忘れるな」と書く。しかし、彼らは必死で次の問いを回避する。・・・大日本帝国はどうだったのか?大日本帝国こそは、ナチスドイツやムッソリーニ政権と軍事同盟を結ぶ、ファシズム勢力の枢軸のひとつではなかったのか?
・・・「つくる会」でさえも、さすがに大日本帝国を「ファシズムではない」とは書けないでいる。もちろん「ファシズムである」と書くこともないわけだが。
だからこそ、ここが彼らの一大弱点となる。
・「日中戦争〜太平洋戦争の時代、大日本帝国はファシズム国家ではなかったのか?」
→(「ファシズムである」とすれば)それをなぜ美化するのか。靖国神社はファシズムの思想的バックボーンであったのに、その事実を認めないというなら、それはなぜなのか。
→(「ファシズムではない」とすれば)事実に反する。では自由と民主主義があったとでもいうのか。そもそも大日本帝国は、民主主義を主張する自由、政府の引き起こす戦争に反対する自由を国民に許したのか。「死んでも靖国神社に祀られたくない」という自由はあったのか。いまだに靖国は、「うちの家族を勝手に祀るな」という遺族の声を拒否し続けているのに。
・・・いずれにせよ、「ファシズムか、自由と民主主義か、あなたはどっちを選ぶのか」という立論がポイントだ。
・・・このように、「つくる会」教科書や靖国神社が教えない歴史に注目してみると、(@∀@)彼らの泣き所が見えてくるのだ。
たとえば「つくる会」教科書の、昭和天皇に関する記述にしても、やはり「絶対に勝てるか?」や、「もう一度戦果をあげてからでないと」などは抜け落ちている。
だめじゃん。(@∀@)