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秦郁彦氏とその信者を、えんえんと撃破してみる(@∀@) その2

[ネタ] 学士会館報 No.851
【 歴史認識が争われる時代 】
  秦 郁彦 (はた いくひこ)
 (歴史研究家・元千葉大学日本大学教授・東大・法・昭31)
http://www104.sakura.ne.jp/~assphalt/stored/up0214.gif
http://www104.sakura.ne.jp/~assphalt/stored/up0214.gif

・・・全文、おとといのコメント欄にあるので、興味ある人はどうぞ。

>だが帝銀、下山、松川、もく星号の米軍謀略説は、
小説家松本清張の妄想に発したという主旨の一文を発
表した(拙著『昭和史の謎を追う』文春文庫、を参照)
ことのある私
は、あらためて陰謀史観の影響力と歴史家
の無力さを痛感した。
(出典:秦郁彦,ibid.)

・・・昨日は帝銀事件の話で秦氏のカン違いを指摘したが、きょうはこれだ。

下山事件 @無限回廊
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simoyama.htm


>1960年(昭和35年)、作家の松本清張も他殺説だったが、著書『日本の黒い霧』で、この事件はCIC(占領軍情報機間)が計画、実行した。下山が失踪した5日の朝、千代田銀行に寄ってお金を引き出したと見られているが、それは下山独自の立場で国労情報を入手する必要があり、この日、下山はその情報を提供してくれる人物と会う予定であった。だが、下山が会ったのは謀略を持った別人だったと推理し、これを本に書いて発表した。

・・・清張の主張は「事件の黒幕はCIC」、つまりGHQの情報機関である。秦氏のいう「米軍」とイコールではない。
その他の「謀殺説」も見ておこう。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simoyama.htm
>東京在住の元海軍特務機関員で、戦後はCIA(米中央情報局)に身を置いたという宮下英二郎が語った「総裁を三越から誘拐したのは知人の元関東軍情報将校のK氏で、私は本人から話しを聞いた」という話で、宮下はこれを週刊誌に書いた。
>元大阪CIC要員だったという新谷波夫が「総裁誘拐の本部は三越店内にあった」という意外な話を公表した。
>事件から15年目(時効)が近づくと、人々を驚かせる情報が飛び出した。「ニセ総裁は筋書きがバクロされかけたので、替え玉になった東京・江東区枝川町に住む李という朝鮮人は殺されてしまった」というものである。これを週刊誌記者に語ったのは、元CIC協力者で警視庁に情報提供者の謝礼を強要し、逮捕取り調べを受けたMであった。
>1963年(昭和38年)には、さらに、迫真性のある情報が元読売新聞記者の槍水(やりみず)徹から寄せられた。「三越から総裁を誘拐したのは4人の元国鉄労組の共産党員で、使った車はナッシュ47年型セダン、車は第8軍軍属スタントン所有のもので、誘拐4人組の1人は自殺、他の3人は海外にいる」というものだった。
>作家の大野達三は、著書『謀略』で、「下山事件はCIA(中央情報局)東京支部が計画したものだった」と書いた。CIAの謀略が世界的に暴露され始めた時期だっただけに注目された。
・・・
>その時効成立の1964年(昭和39年)前後に、朝日新聞の矢田社会部記者は、死体発見現場付近で下山らしき人物を見たという目撃者13人のうち5人ほどにそのときの証言の真実の確認をしている。
>その結果、警視庁の現場捜査員による「目撃証人尋問調書」と食い違っているところが幾つかあり、つまり、目撃した通りに調書に書かれておらず、捜査1課が事件を自殺であると決めつけた上で、目撃者の供述を捏造していたことが判明した。
>さらに、矢田社会部記者は、2つの注目される情報を手に入れた。
>そのひとつは、事件現場に近い小菅(こすげ)町の工場街で、下山が失踪した5日夜、大きな外国製自動車がたくさんの人を乗せて事件現場の方に走っていったが、そのあとの深夜に再び、この車が小菅神社という小さな神社の境内に置かれているのを見たという人がいた。自分が見たことは、下山殺しと深い関係があるのではないかと思い、これをしゃべると犯人に殺されるかもしれないと、15年間黙っていたという。
>もうひとつは、Sという強盗前科のある男の証言だった。お金をもらって車のトランクから出された下山の死体を3人で運んだ、という。矢田社会部記者は事件の翌年にはある方面からSが事件に関与した、という情報を得ていたが、やがて、事件から15年が経って時効になり、そのころからSと面会を重ねていたが、Sは事件のことを口にはしなかった。事件から21年目の1970年(昭和45年)になり、Sは事件で自分の担当部分を話してくれたと、1973年(昭和48年)に刊行した著書『謀殺下山事件』に書いた。
>矢田は、下山事件CICが日本人を使って工作したことは間違いないとした。
>1976年(昭和51年)、下山の衣類に付着した油や染料の「解明」をした佐藤一は、著書『下山事件全研究』で、ジャーナリズム批判をし、自・他殺論の争点を明らかにし、各説批判した上で、下山は、初老期鬱憂(うつゆう)症が原因の自殺とした。失踪後の目撃証言や検死にあたった八十島信之助監察医が轢死(自殺か事故死)という判断を下したこと、捜査本部が自殺の結論に達していた事実からも明白。GHQの一部や政府筋は、下山の自殺を明らかにせず、謎のままにすることで、「事件は共産党労働組合による犯行」というイメージを植えつけ、徹底的に政治利用したと結論づけた。
>2000年(平成12年)、歴史民族学研究会主宰の礫川全次(こいしかわぜんじ)は、著書『戦後ニッポン犯罪史』で、次のように書いている。
<下山は人員整理問題で悩み自殺した。五反野という場所を選んだのは、土地鑑があったからであろう。ここは自殺が多い場所として知られており、下山は東鉄局長時代に一度、視察に訪れている。内閣官房長官増田甲子七(かねしち)の「自殺ではない」発言にあったように、支配層内にはこの事件を左翼テロとして位置付けようとする動きがあった。謀殺とすることで、国民の左翼勢力に対する感情を悪化させ、同時に国鉄労組を萎縮させようとしたのであろう。謀略説そのものが謀略であったということになろうか。そしてこの謀略は功を奏したのである。さらに、死後轢断説に根拠を与えた古畑鑑定は、「政治的」鑑定であったと見たい。古畑種基は著名な法医学者であるが、今日から見るとその言動には常に「疑惑」がつきまとっている。松本清張のとなえる謀略説は、一応の説得力を持っているが、古畑鑑定に依拠しているところに問題がある>

・・・もちろん「CIA」も、秦氏の言う「米軍」とイコールではない。

秦郁彦氏の学者としてダメなところ:
米軍とGHQとCICとCIAの区別がついていない。


「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」