前回http://d.hatena.ne.jp/claw/20101019#p4の続き。
・・・過酷な状況におかれた人間が生き延びるための手段として、時に「妄想」が用いられる。たとえば手塚治虫が、たとえば小林信彦が、戦時下の少年時代を絶望の一歩手前で生き延びるために、とりとめのない空想や妄想を支えとした。
- 作者: 手塚治虫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1983/09/12
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- 作者: 小林信彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1993/11
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アウシュビッツをはじめとするユダヤ人の強制収容所において、最後まで生き残った者には、脱出の「希望」を失わなかった人々が多かったともいう。おそらく彼らの「希望」は、周囲の人間には妄想と区別することはできなかっただろう・・・
- 出版社/メーカー: 角川書店
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この映画も「妄想もいいかげんにしろよ(@∀@)」と言いたくなるストーリーではあるが、それでもなお、そのいわんとすることはよくわかるのだ。
・・・そんな昔の話はおいといて、今日マチ子の『cocoon』の話をしよう。
しかしながら妄想というものは、本当に過酷な状況を生き延びる手段として適当なものなのか。たとえば「大日本帝国は天皇を中心とする神の国であるから、決して負けるはずがない」といった妄想は、国民が生き延びる上では何の助けにもならなかったし、むしろそうした妄想から自由であった人間のほうが戦場での生存確率は高かったであろう。実際、「神国日本」という妄想のおかげで、結果的に大日本帝国は滅亡してしまう。ここで大事なポイントは、「その妄想はいったい誰のものか」ということではないか。大日本帝国にまつわる妄想などというものは、しょせん「その時代において与えられた環境」の一部にしかすぎないのであって、そんなものに依拠しているかぎりは、過酷な環境の裏をかいて生き延びることはできないどころか、ただ流され消えてゆくだけだ。むしろ「与えられた環境の外へ外へとハミ出していく妄想」の中にこそ、生き延びるための可能性もまた存在するのではないのか。たとえば地球の生物史を見ても、生物多様性が環境変動に対する生物圏の持続可能性を生み出してきたようなもので。
・・・そんな大昔の話はおいといて、今日マチ子の『cocoon』の話をしよう。
今日マチ子のマンガ『cocoon』は、「沖縄戦の女子学生たち」という題材を足がかりにしている。してはいるが、その前に「今日マチ子の作品」である、ということを特筆しておきたい。「今日マチ子の作品」はいうなれば常に「毒入りの甘いミルク」で、主成分は少女のかたちをした妄想であり、だから『cocoon』という作品もその同じ流れの中から浮上したものではあるのだ。あるのだが、それでいながらこれまでの「今日マチ子」作品とは決定的に次元の違うものがそこにはある、ということを特筆しておきたい。『cocoon』はいうなれば「少女の妄想はどこから来るのか」に気づいてしまった元・少女の夢日記で、それに気づくための触媒となったのが「沖縄戦の女子学生たち」であった、ということではないだろうか。だから『cocoon』は、個々のエピソードこそは現実の類似の出来事に基づくとしても、これまでにフィクションやノンフィクションで描かれたいかなる「沖縄戦の女子学生たち」とも異なるし、同時にこれまでに描かれた「今日マチ子の作品」とも異なっている。それは妄想か? もちろんそうだ。しかしその妄想は何から生まれるのか。現実という故郷からやってきたものではないのか。現実がなければ妄想もまた生まれはしない。それゆえ『cocoon』の冒頭には次の言葉がかかげられている。
>この物語は、
>実在するテーマを
>題材とした
>フィクションです
▼沖縄県女子師範学校(女師)+ 沖縄県立第一高等女学校(一高女)の女子学徒隊
(ひめゆり学徒隊、俗にいう「ひめゆり部隊」)についての史実
・1945年3月23日 両校の女子生徒222人+引率教師18名 合計240名の学徒隊が沖縄陸軍病院の看護要員として動員される。
(この間に米軍が上陸)
・1945年6月18日 「解散命令」。
・1945年6月19日以降 教師・学徒240人のうち136人死亡。
そのうち教師の平良松四郎と9名の生徒は荒崎海岸で集団自決。
・・・いずれにせよ、『cocoon』の表現とテーマは、今までの「今日マチ子の作品」を突破した。また、「沖縄戦の女子学生たち」を見るにあたっての、新しい視点を提供した、かもしれない。こうの史代が『夕凪の街 桜の国』で1950年代と現代を地続きにしてしまったように、「沖縄戦の女子学生たち」は『cocoon』によって21世紀との新しい接触面を得る。
・・・まずは本を手に取り、表紙を見てみよう。一輪の引きちぎられた?百合の花を持ち、モンペや制服にピンク色やオレンジ色の染みをつけた女学生が、青空を背にこちらを見ている。百合はテッポウユリであろうし、背景に見えるのは赤いハイビスカス、燃えるようなオレンジ色はデイゴの花だろう。その鮮やかさとくらべて、女学生の存在感は非常にたよりない。輪郭さえきちんと閉じられてはおらず、なんだかあいまいな表情を浮かべている。この主人公の「存在のはっきりしなさ」というのは、実は表紙から物語の最後まで一貫している。(そういえば、このマンガでは登場人物たちのフルネームさえ表示されない)。表紙の主人公の服を染めているのが花の色であるのか、それとも(おそらくはそうだろうが)血しぶきであるのかすら、定かではない。どこからか風が吹いていることは、草木や髪のそよぎでわかるのだが。
・・・この表紙を見ただけでは、本の中にいかなる悪夢が綴じこまれているかは、まったく明らかにはされていない。もちろん、それはそれでいい。本はまず、読まれなければ存在する価値がないのだから。
(つづく)