殴った側の人間は殴ったことさえすぐに忘れる
▼オーストラリアで日本軍空爆70周年慰霊式…「1942年は歴史上最も暗い年」と首相
>ダーウィンは第2次大戦時、連合国軍側の拠点で、42年2月19日に日本の爆撃機が 空襲、少なくとも243人が死亡したとされる。
>地元の交流団体、ノーザンテリトリー豪日協会会長を務めるダーウィン在住の 平山幸子さん(43)=長崎市出身=も式典に出席。「空爆は日本では あまり知られていないが、オーストラリアは親日的なので恐れずに歴史に目を向けてほしい。それが互いの理解を深めることにつながると思う」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120219/asi12021920400001-n1.htm
▼日本のオーストラリア空爆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%A9%BA%E8%A5%B2
▼中年夫婦の35日間オーストラリア旅行記 ダーウィン空襲
http://au35days.jonai.net/titbits11.html
▼豪日研究プロジェクト 攻撃されたオーストラリア(当時の写真が多数)
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/5c084e8ab5f9caabca256b7a0020e9a6/420e14cf06fb772fca256bce000375c5?OpenDocument
>1942年2月19日、北部準州準州ダーウィン
>オーストラリアに対する最初の日本軍の空襲で炎上する二隻の船、「バロッサ」と「ネプチュナ」。この攻撃で「ネプチュナ」に積んであった爆雷が起爆し、空襲による最大の爆発となった。二度の猛攻撃で多くの建物が破壊され、10隻の海軍と民間の船舶が沈没または破損し、軍人・民間人を合わせ、243人が死亡した。太平洋戦争中、オーストラリアの主要都市でダーウィンが最も多く空襲を受けた。1942年2月から1943年11月にかけて豪州北方の諸島を基地とする日本軍の爆撃機と戦闘機はダーウィンに64回の攻撃を加えた。
>1942年2月19日の最初のダーウィン空襲で死亡した25人のオーストラリア民間人の墓。
>彼らはダーウィン郵便局に落とされた爆弾で死亡した。
>1943年5月、ブリスベインのグリーンスロープ陸軍病院
>豪軍病院船「セントー」が沈没したおよそ8日後、病院のベッドでインタビューを受ける豪陸軍看護局のエレン・サヴェージ看護婦。「セントー」は病院船であることをはっきりと表示していたにもかかわらず、1943年5月14日夜、クイーンズランド南部の沖合いで魚雷攻撃を受け、沈没した。この攻撃を行ったのは、中川少佐が指揮する日本軍潜水艦「伊177」である。船の定員332人の内12人が看護婦で、生存したのはサヴェージ看護婦を含め、わずか64人であった。非武装の船を沈没させたことにオーストラリア人は憤激し、「セントー」は彼らの戦争勝利に対する決意の象徴となった。沈没する「セントー」の絵と「看護婦の復讐を」という標語を書き込んだポスターがオーストラリア中に出回った。