「沖縄戦で沖縄人は勝手に死んだ」論を鼻で笑うリンク集(@∀@)
▼米兵が記録した自決命令
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper73.htm
>「約100名の民間人をとらえている。二つの収容施設を設置し、一つは男性用、もう一つは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたとくりかえし語っている」
▼「集団自決」の再検討
沖縄戦の中のもうひとつの住民像
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm
>最後にいくつかのことに触れておきたい。
>第一に「集団自決」は文字通りの「自決」ではなく日本軍による強制と誘導によるものであることは、「集団自決」が起きなかったところと比較したとき、一層明確になる。そしてその要因の解明には地域の戦争体制、支配構造の分析が不可避であり、これは今後の沖縄戦研究の大きな課題である。
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>第三に沖縄戦での住民の行動を見ると、「集団自決」をおこなわなかった人々の方が圧倒的に多い。日本軍がいないところでは、住民は自らの判断で投降し助かっている。そこでは移民の経験者やクリスチャンのように「鬼畜英米」などという軍の宣伝を批判的に見る、「皇民」とは異質な資質を身につけた人々が、住民を生還に導くうえで大きな役割を果たした。移民を出している率が全国トップだった沖縄にはそうした人々が多かった。
>天皇のため、国家のために命を捧げよ、という皇民化教育にからめとられなかった人々が実はかなり存在したことを物語っている。そうしたことを見るとき、従来の沖縄戦研究のなかの住民像の一面性も見えてくる。つまり、軍のために献身することを信じこまされていた「ひめゆり」に代表される学徒隊のようなイメージ、あるいは軍の宣伝を信じこんで「集団自決」に追いやられた人たちというイメージは、沖縄戦のなかの住民の行動の、重要ではあるが一面でしかない。日本軍の住民虐殺は沖縄戦の最も重要な特徴だが、そこでの住民像はあくまで受け身の存在にとどまっている。それに対し、米軍と交渉し話をつけて投降する人々の姿は住民の主体的な意識と行動を示している。・・・
▼久米島守備隊住民虐殺事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%B3%B6%E5%AE%88%E5%82%99%E9%9A%8A%E4%BD%8F%E6%B0%91%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)とは沖縄戦の最中に発生した悲劇であるが、他の沖縄の島々で行われたと日本軍による住民の集団自決の強要(こちらは自由主義史観論者などがら真実ではないと主張されている)とは違い、本来ならば住民を守るべき日本軍久米島守備隊がアメリカ軍に拉致された住民3人をスパイとして処刑しただけでなく、その家族までもスパイとして虐殺した事件である。しかもその時の責任者である守備隊のトップであった鹿山兵曹長自身が、後に虐殺の事実を認める一方で、大日本帝国軍人として正当な行為であったと公言したため物議をかもした事件である。・・・
▼『改訂版 沖縄戦』
http://www.koubunken.co.jp/0100/0097.html
(1988年)
> 数えあげればきりがないが、とにかく、沖縄では戦争体験は風化するどころか、いまようやくにして体験者の深い沈黙の底から戦場の実相が浮かびあがりつつある現在なのだ。 ところが、こうした戦争体験の継承運動の対極で、「もはや沖縄の戦後は終わった」として歴史の教訓を抹殺しようとする勢力が頭をもたげてきたこともこの間の顕著な現象であった。>教科書検定のたびに、犠牲者数を抑えられたり、日本軍による住民虐殺の記述が削除されていった。かわりに、「軍民が一丸となって抗戦し、中学生や女学生も学徒隊として戦列に加わった」などと、挙国一致の戦争協力を賛美する復古調の教科書が出現した。こうした逆流と波長を同じくして、戦跡公園には皇軍賛美の記念碑がふえ、ついには「八紘一宇の塔」まで出現した。
>しかし、なんといっても最大のキャンペーンは八七年秋の「海邦国体」であった。
>沖縄県はこれまで日本国の天皇がいちども足を踏み入れたことのない唯一の県である。それが、国民体育大会ともなれば国事行為として史上はじめて天皇の沖縄訪問が実現する。復帰一五年の節目にもあたるこの大会に、戦後清算派の人たちがいかに大きな期待をかけたか容易に想像できる。西銘県知事はいちはやく「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言した。
>天皇訪沖はある意味で危険な賭けでもあった。これを機会にあらためて天皇の戦争責任を問う空気が現地には充満していた。だから、「奉迎」の準備は用意周到にすすめられた。異常なまでの事前警備体制、挙県一致の国体協力運動、日の丸掲揚の行政指導、マスコミをまきこんでのムードづくり……。地元新聞にも珍しく皇室用語と過剰な敬語が氾濫した。
>結果は、海邦国体はいちおう成功をおさめることになったが、肝心の天皇来沖は急病のため実現しなかった。かわりに皇太子が「お言葉」を代読した。「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます。……」
>恒例の国体で、このような「お言葉」が読み上げられるということは異例のことにちがいなかった。西銘県知事は、「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。
>しかし、これではたして沖縄の「戦後」は終わったのだろうか。ここからが、われわれの現実認識と歴史認識の問題になってくる。
>沖縄国体をまえにして、政府にとって一つの頭痛の種は、巡幸コースにあたる南部戦跡の未収集遺骨の問題であった。戦跡国定公園に指定された広大な山野には、いまなお戦没者の遺骨が野ざらしになっている。政府と県は毎冬ここで遺骨収集作業をつづけているのだが、従来のテンポではあと二〇年はかかるだろうというのが現場の意見であった。天皇巡幸と野ざらしの遺骨、こんな取り合わせではあまりにイメージが悪すぎる、と考えたのだろう。政府は特別の予算を組んで、いっきょに収骨作業をすすめ、国体までには収骨終了宣言を発しようと考えた。
>八六年二月、第一回の県民収骨作業が実施された。私も映画撮影班と同行して作業に参加したのだが、農道わきの藪に五、六メートルも分け入れば遺骨はすぐにみつかった。この日、正味四時間の作業、しかも島の最南端のかぎられた一角で、じつに四百数十柱の遺骨が収集された。地表採集だけでこのありさまだから、地下にはどれほどの遺骨が眠っていることか、参加者たちはそう実感した。結局、ヤブヘビのような形になって収骨終了宣言はサタ止みになってしまった。
>ここにも本土と沖縄との感覚のずれがあったようだ。遺骨収集もさることながら、現地の生身の人間にとってさらに深刻なのは埋没不発弾の問題である。県内で毎年発見される不発弾は平均して八百件にのぼる。処理作業がおこなわれるたびに付近の住民は避難を命ぜられ、そのたびに四〇数年まえの悪夢がよみがえってくる。埋没した不発弾はまだ三千トン近くもあるといわれ、現在のように年間五〇トンの処理ではあと六〇年はかかる計算になる。ここでも戦後はまだまだ終わりそうにない。・・・