▼インパール作戦
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1172174836/E965979095/index.html
>もうその頃になると、脚気で全身むくみあがった者はいなかった。とっくに落後したのだ。したがって、兵隊たちは一様に枯れ切った細い枯れ木にひとしかった。
>(中略)
>その頃、誰言うことなく、この街道を靖国街道と言った。その儘歩き続ければ、靖国神社に通じるという意味である。
>当時、靴の損廃がひどかったのでだれもが靴に困っていた。路傍に、それまで穿いてきた自分の靴を並べ、戦友に使ってくれと訴えるようにして死んでいる兵もあり、道行く将兵の涙を誘った。・・・
▼インパール作戦(-さくせん)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
>(日本側作戦名:ウ号作戦(うごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無能かつ無責任な司令官による、無茶な作戦の代名詞としてしばしば引用される。
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>退却戦に入り、退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の白骨死体が横たわるむごたらしい有様を、日本兵は「白骨街道」若しくは「靖国街道」と呼んだ。英軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。赤痢などに罹患した餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、衛生上敗走する日本軍よりもむしろ危険であったため、英軍は進撃途上で生死を問わずガソリンをかけて焼却して回った。・・・