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・・・忙しい毎日の片手間に、ちょっと戦争に反対してみる。
最短30秒からの反戦と平和のアクション。萌える反戦運動!
だいたい1日に10分くらいで、鼻歌まじりに更新していきます。
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大日本帝国による植民地政策下の台湾」特集。
・・・麻生外相によれば、「日本が(植民地支配下の)台湾に義務教育を持ち込んだ。結果としてものすごく教育水準が上がった」のだそうですが、それがどうしたというのでしょう。(@∀@)そんなことで何か「いいことをした」気分になっているのだとしたら、ちょっと世の中をなめているとしか言いようがありません。

▼台湾映画『さよなら 再見』
(ビデオ絶版)
▼同、原作本
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4839600066/

・・・日本人の台湾買春ツアーを引率することになったツアーガイドが、旅先で出会う皮肉で奇妙な事件。美しくかなしい台湾の風景が印象に焼きつく。

▼台湾映画『多桑(とうさん)』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005G21S/
▼同、映画評
http://www.cosmos.ne.jp/~miyagawa/text19b.html

・・・植民地下の台湾に生まれ、日本にあこがれ続けた一人の男を、その息子の視点から描く映画。
この映画を見て、「台湾人がこんなにも日本を愛してくれたなんて感動です」などとねぼけたことを言う連中には、殺意をこめて苦笑するしかない。「親日派の映画」だとか思っているのだとしたら救いようがない。(@∀@)現実の世界はもうすこし複雑にできている。
・・・この映画の英語題名は、「Borrowed Life=借り物の人生」という。大日本帝国の植民地政策によってアイデンティティを引き裂かれ、現実不適応のまま生きざるをえなかった男の物語と理解したい。

▼台湾ニューシネマ@wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%9E
▼台湾統治時代が舞台の映画@2ちゃんねる
http://ton.2ch.net/taiwan/kako/1008/10085/1008593655.html
▼日本支配下における映画
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/7794/Japanfilmwar.htm
総督府は台湾人に〝公民化〟とよばれる政策を行った。台湾人の多数は中国から植民してきた漢民族であり、福建語系の台湾語と呼ばれる中国語を話したが、日本は彼らに日本語を教え、日本人化しようとしたのである。日本映画はすべて、日本語のまま、中国語のスーパーインポーズなどなしで上映されていた。当時、台湾を訪ねてこのやり方に疑問を抱いた批評家の杉山静雄の質問に、台湾総督府の役人は、「映画を楽しみたかったら国語(日本語)を憶えよ。国語不解者には映画は見て貰わなくても結構」と断言した(杉山静夫「台湾映画界暫見」『映画旬報』1943年11月21号)。当時の日本による日本語教育の押しつけがどんなに残酷なものであったかは、のちの台湾映画、たとえば葉金勝の『さよなら再見』(1986年)に痛烈な皮肉をこめて描かれることになるのである。


ハンセン病「台湾訴訟」 日本人と公平に補償して
政府の控訴に原告らが抗議
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-11-09/2005110914_01_2.html
>植民地下のハンセン病強制隔離をめぐる補償訴訟で、厚労省が八日、「台湾訴訟」について控訴を決定したことを受けて、台湾、韓国の原告や日本の弁護団、支援者らは怒りの声をあげました。
・・・
>旧植民地ハンセン病訴訟 日本の植民地時代に総督府が設立した韓国のハンセン病療養所「国立小鹿島(ソロクト)病院」(旧小鹿島更生園)と、台湾の「楽生療養院」(旧楽生院)の入所者計百四十二人が、「強制労働や中絶強要など人権侵害を受けた」などとして、国にハンセン病補償法に基づく補償金支給を求めました。海外の強制隔離政策をめぐる初の訴訟で、東京地裁の別々の部で審理されました。「台湾訴訟」は原告が勝訴しましたが、「韓国訴訟」では補償対象とは認めず、原告が控訴しました。

・・・日本人の患者に対してすら大日本帝国は過酷な隔離政策と人権侵害を強いたが、植民地下の住民に対する扱いはさらに過酷を極めた。
(余談ながら、映画『もののけ姫』において、皇室の権威を屁とも思わぬ武器商人・エボシ御前が、ハンセン氏病患者とおぼしき人々をわけへだてせず、彼らに仕事を与えているシーンがある。この問題に対する宮崎駿のポリシーを感じる。)

建国記念の日靖国訴訟の原告、井上弁護士が講演−−浜松 /静岡
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060212-00000017-mailo-l22
 建国記念日の11日、浜松市東田町の地域情報センターで開かれた「2・11思想と信教の自由を守る県西部集会」で、小泉首相靖国神社参拝は違憲と判断した大阪高裁判決(05年9月)の訴訟で原告団に加わった弁護士の井上二郎氏が講演した。
 同訴訟では、旧日本軍の軍人・軍属として戦死した台湾先住民族の遺族らが、首相の靖国参拝憲法が定めた政教分離に違反し、精神的苦痛を受けたとして損害賠償を求めた。原告側の控訴は棄却されたが、井上氏は判決の意義について、「遺族が戦没者をどう祭祀(さいし)するかを公権力の干渉を受けずに決める権利と、参拝で侵害される利益の存在を認められたのは初めて」と評価した。

▼(関連)台湾先住民が抗議 先祖を靖国にまつるな 植民地時代に徴兵
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-06-15/15_01_2.html
タイヤル族のワタン・タンガさん(76)は、日本語で「日本軍は原住民を討伐し続けた。政治、経済、文化、軍事にわたる支配下で苦しんできた。靖国神社に祭られることに合意しない」と訴えました。ブヌン族のジャン・イシパパナルさん(55)は、「犠牲者の霊を鎮めるのは私たちの手でしかできない。このような目に遭い、非常に苦痛だ」と述べました。

・・・ファシズム国家は国民の精神の自由を認めない。大日本帝国およびその植民地においては戦死者の遺族に「靖国神社への合祀拒否」の権利はなかった。その清算がいまだになされていないことがこのような事態を生んでいる。誰だって、自分の家族が知らないうちに歴史100年そこいらの新興宗教の施設に無許可で祀られていれば気分が悪かろう。


高砂義勇兵慰霊碑 台北県が撤去要請
西日本新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060218-00000018-nnp-int
>日本からの募金で撤去の危機を免れ台湾北部・烏来郷で今月八日に落成式があったばかりの「高砂義勇兵」慰霊碑について、一部地元メディアや立法委員(国会議員)から「軍国主義的だ」との批判がおこり、設置された公園管理者の台北県政府(県庁)は十七日、遺族団体に碑の撤去を求めた。
・・・
>十七日付の台湾紙「中国時報」は一面トップで「公園が日本に占領された」との見出しを掲げ「碑文は天皇に対する忠誠心を称賛している」などと報道。また対日批判活動で知られる高金素梅・立法委員は同日、県政府を訪れ、県の対応を求めた。一方、簡理事長は「設置は県に正式に申請したもの。碑は慰霊のためで政治的意図はない」と話している。
▼(関連)台湾「高砂義勇兵」慰霊碑“撤去”の危機 敷地提供会社が日本人観光客激減で倒産
http://www.sankei.co.jp/news/morning/04iti002.htm
あるいはhttp://news17.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1088886661/

・・・高砂義勇兵については以下を参照のこと。

高砂義勇兵wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82%E7%BE%A9%E5%8B%87%E9%9A%8A
>(たかさごぎゆうたい)は太平洋戦争末期、台湾原住民が戦闘員としてフィリピンなど、南方の戦場に投入するために創設された部隊。正規には軍属であり兵士ではないが、実際上は戦闘に参加し、戦死者の割合が正規軍よりも多かったといわれている。しかし、戦後、生存者も遺族も一切恩給や補償を全く得られず、また台湾国内においても、日本国内においても、全く目も向けられず、冷たい対応をされていた。
・・・
>戦後、未払いの軍事郵便貯金の払い戻し(確定債務問題)、戦死者の靖国神社からの分祀などを巡って生存者や遺族の一部は裁判等で係争を続けていたが・・・


霧社事件

http://homepage1.nifty.com/ACOM/taiwan3.html
(現在は閉鎖されています。IAの記録はこちら http://web.archive.org/web/20040109133316/http://homepage1.nifty.com/ACOM/taiwan3.html
>1895年、日清戦争に勝った日本は莫大な賠償金とともに台湾を
獲得する。(略)山地の強行偵察に入った日本人14人が行方不明に
なる事件が起きた。ここで日本軍は山岳地帯を、地雷と鉄条網で封鎖
する手段をとる。数年の封鎖により塩を入手出来なくなった山地住民
は健康を害するようになった。ある日、日本軍と警察は塩を配給する
と布告し、帰順してきた住民の内、若い男を殺して平定に成功する。
(略)霧社地区に派遣された巡査・吉岡は木材を住民に伐採運搬させ
ボロ儲けした。しかも作業にあたった住民の給料をごまかし、運搬の
方法が悪いと殴打して住民の恨みをかっていた。(略)霧社地区
マヘボ社にはモーナルダオ(漢字では莫那魯道と書く)と云う山岳民の
首領がいた。ある日住民の結婚式に来賓として出席した吉岡巡査は、
モーナルダオの息子が握手を求めた際、巡査の権威の象徴である白い
手袋が汚れたと息子を殴打した。さらにお詫びのしるしに差し出した
酒杯を手で払った。結婚式では山羊や野豚をほふって料理するから
息子の手は血で汚れていたかも知れないし、酒は麹のかわりに唾で
発酵させるから、日本人には不潔に思えたのだろうと、下山みさ子さん
は云う。これが霧社事件の直接の原因になった。(略)モーナルダオ
はついに武装蜂起を決意し、決行の日を10月27日と定めた。(略)
1930年10月27日、霧社公学校では日本人小学校との合同運動会
が開催されようとしていた。(略)深夜3時、モーナルダオに率いられ
た300人余りの青年部隊が、霧社周辺の駐在所、交番を襲い、巡査を
殺し、銃器を奪い、電話線を切断しながら、孤立無援の状態にした
霧社公学校と霧社警察署に向かった。事件の直接の原因を作った吉岡
巡査は真っ先に血祭りにあげられていた。朝8時、運動会場での国旗
掲揚、国歌斉唱の開始と同時に学校と警察署は、刀、やり、銃で武装
した部隊に襲撃され、日本人は女、子供を問わず殺害の対象になった。
(略)この蜂起に際し、霧社12社の内、モーナルダオに従ったのは
6社(全住民併せて1300人)だけで、残りの6社は参加を拒否した。
(略)激怒した日本当局は軍警一体の討伐部隊を山中におくる。
蜂起部隊は岩の陰、木の陰に隠れて反撃をやめない。ついに日本軍
は飛行機による毒ガス弾爆撃の挙に出る。これが日本軍がヨーロッパ
から生産設備を輸入し製造した毒ガス弾実戦使用の端緒とされている。
日本軍に逐われた山地住民は、足手まといの子供をマヘボ渓谷に投げ
入れ、女達も木に縄をかけて首吊り自殺していった。山地の少数民族
は自分たちの祖先が木から生まれたと信じていて、木に首をかけて
死ねば祖先に会えると思っていたようだ。山岳地帯のゲリラ戦に手を
焼いた日本軍は、他の山岳民族にモーナルダオ隊の戦士の首を取って
来たものには多額の賞金を出すと布告し、山岳民と山岳民を相闘わせる
策をとる。こうして山岳民は日本軍に協力する「味方蕃」と、なお
抵抗する「敵蕃」とに分裂させられる。最後まで抵抗を続けたモーナル
ダオは、マヘボ渓谷源流の洞窟の中で自ら喉を鉄砲で撃って自決した。
モーナルダオの遺骨は翌年発見され、台湾帝国大学に陳列された。
(略)翌年、「味方蕃」が生き残った「敵蕃」を襲い200人以上が
殺害される事件が起きた。これを第2次霧社事件と呼ぶ。霧社事件後、
「敵蕃」は日本軍警の厳しい監視下に置かれていたのだから、
「味方蕃」による襲撃は日本当局の指示により行われたことは疑いない。
霧社事件、第2次霧社事件後も生き残った200人余りは山から
下ろされ川中島(現在は清流と改名)に強制移住された。山の中に
住まわせて置くと、また山岳ゲリラ活動をおこす恐れがあると判断
された為である。川中島と名付けられて平地は島ではないが、後方に
山が広がり、前方が川で1本の吊り橋でしか外界との連絡がとれない
土地。この地の中央に50人が駐在する警察署を置き、吊り橋のたもと
にも交番を設けて、霧社の生き残りを閉じこめた。
・・・

▼日本最初の毒ガス作戦としての霧社事件
http://mltr.e-city.tv/faq08d.html
日本軍による毒ガス作戦は、1930年の台湾に於ける所謂、霧社事件
使用されたのが最初です。当初は現地作成で、台湾総督府中央研究所
に於いて飛行機からの投下用に、青酸ガスと催涙ガスを発生させる
甲三弾を試作、少なくとも3発を投下していますが、効果の程は不明
でした。次いで、日本本土より山砲用催涙弾(緑弾(甲一弾))
100発が台湾に送られ、11月18日の総攻撃で使用されました。
ちなみに緑弾は、催涙性の塩化アセトフェノンが用いられていました。
宇垣陸相はこの山砲弾を催涙ガスであると国会で答弁していますが、
国際連盟の問い合わせでは、幣原外相は、これを「催涙ガスも毒ガス
に含まれる」と回答しています。また鎮圧に当った台湾軍参謀の服部
兵次郎大佐も、自らその講演で、毒ガス弾の使用とは関係ありません
が、ダムダム弾の使用を認めています。

▼台湾の教科書にみる抗日運動の記述
>一八九五年十一月、台湾総督府が全島平定を宣言したあとにも、各地には
武装抵抗事件が相次いで発生した。各地の義民による武装抵抗は、およそ
前期と後期の二期に分けられる。一九〇二年までを前期とし、この時期の
抵抗は、屍を乗り越えていくというものであり、参加した民衆は多い場合
で数千人、少ないときでも数百人で、その大部分はゲリラ戦法をとり、
日本人の虚を突き大きな打撃を与えた。
当初、総督府は残酷な報復的鎮圧を展開し無差別的殺傷を進め、かえって
民衆を抗日へと駆り立てるところとなった。その後「三段警備制」の実施
に改め、治安状況によって全島を危険、不穏、安定の三区分に分類し、
区分ごとに軍隊、憲兵、警察が警備に責任を負ったが、効果はあまり
なかった。一八九八年、総督の児玉源太郎は積極的に鎮撫と策略の方法
を採用し、警察力を拡充し壮丁団(注④)を活用して武力鎮圧を進める一方、
招降策を定めて抗日勢力の投降を勧誘した。一九〇二年、各地の抗日勢力
はつぎつぎと崩壊し、民間が所有する武器をすべて没収し、この七年間に
抗日運動に加わって戦死あるいは逮捕殺害された者は一万人余に達した。
一九〇七年から一九一五年が後期となる。この時期に、台湾各地で前後して
十を越す民族革命的な抗日事件が発生し、各事件はいずれも一挙に
在台日本人を殲滅し駆逐することを謀議していた。しかし、参加人数は
苗栗事件、西来庵(現在の台南市内に存在)事件が相応の規模であった
のをのぞき、その他はわずか十数人から百余人程度のものであった。
当時、総督府の台湾社会に対する統制は非常に厳格で、各事件は謀議の
段階で総督府に察知されるところとなっていた。一九一三年、苗栗事件
で死刑に処せられた者は、羅福星など二十人であったが、いずれも刑場
において死への気概を従容として示し、このため現場の日本官憲を感動
させた。一九一五年、西来庵事件によって逮捕された者は二千人近くに
達し、最終的に処刑された者は余清芳ら百余人であった。
http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1890/110.html

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」