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日韓合作アニメ『妖怪人間ベム』作画監督・森川信英の証言

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森川信英の世界
https://web.archive.org/web/20130130161053/http://www.k2.dion.ne.jp/~nersury/page013.html

講演での話
こんにちは、森川信英と申します。本日は、妖怪人間になれなかったアニメーターたちのお話しです。
黄金バット j 「妖怪人間ベム 」 の作者は誰なのか。写楽斉的ミステリーの話題を追って、私が答えることになりました。皆傑もご不審な点があれば、お答えいたしますのでご質問ください。私は 82 才ゆえ、塩爺さんのように「忘れました」とは云えませんので。

昭和 40 年 (1965 年 ) 、政府筋のお偉方から、韓国へわたってアニメ技術を教え てくれとの依頼が、私の元に届きました。私はその頃、東京銀座の三越松屋の中間にアニメの撮影スタジオを設備して大忙しの毎日でした。丁度、前の年に「日韓国交回復条約」が締結され、両国間の交流を何にするか話しあって、当時既に日本が世界に誇る産業に成長していたアニメーションが良いということ になり、技術を提出する約束があったのです。私は戦時中、甘粕正彦氏の国策会社、満州映画協会で動画技術を現地の人たち ( 満州族 ) に教えた経歴がありましたので、私に白羽の矢がたったのだと思います。
私も戦争を体験し、日本人が韓国人の財産や、人としての誇りを奪いとった卑劣な行為を知っていました。私も日本人の一人として、韓国の文化にお役に立てるならと、渡韓証明証を手に行くことにしました。費用は自腹でしたが、日本の大手広告代理応「第一企画」の重役と後に一緒に「妖怪人間ベム 」や「黄金バット」を創ることになる浅井孝長さんが同行でありました。韓国に行って驚いたのは、アニメーション映画作りへの国を挙げての力の入れようでした。ソウルにある東洋放送と中央日報は、 N H K と朝日新聞を併せたような国内最大のマスコミ機関でありました。まず顔合わせをして、友好をふかめ、日韓共同のアニメ映画作りを約束しました。
局長には、国務大臣が、動画部長は韓国財界の雄・三星物産の元参事が加わり、大それた顔ぶれでありました。ただ、当時の韓国は、今では考えられないほどの反日感情が渦巻いていました。戦時中に我々日本人が彼らに行った数々の残虐な行為を考えれば、それはひどく当然のことなのですが、その憎悪の凄まじさは私の想像を越えていまし た。日本人はソウルの街を歩くだけで、殺されても文句はいえないという状況 だったのです。

ひとり韓国にとどまった私は、アニメ製作に使う「作画スタンド」や日本から送ってくる用紙を納めるロッカーや棚を置く場所を、東洋放送最上階の 1O 階、ワンフロア全てを「動画製作部」 にしました。その後、マスコミを使って公募された採用試験では、8O 人の定員枠に対し、美大生や一流のマンガ家が実に 900人を超える若者が全国から集まりました。

https://web.archive.org/web/20130130161648/http://www.k2.dion.ne.jp/~nersury/page014.html

 アニメーターになるには、一秒 24 コマの動きをキャッチする目、描いたものに命を吹き込むトリック技術や、アクションペーパー、日本でいう「パラパラ漫画」の原理を応用した技術が必要です。
採用した画家たちは男女ともに素質、個性の目立つ人たちです。彼らは動く原理を知っていましたが、映画になる工程や、一枚の絵を数名が仕上げるマニュアルは、現場でなくては学べないのです。家を新築するにも、設計から土台や配線など、組み立てる技が必要です。各持ち場のグループを選定し、集ったアニメーターの卵たちで分担作業がスタートしました。ところが日本語は厳禁です。一流大学の講師を通訳としてつけてくれましたが、一つひとつのトリックは上の空ですから、上手く伝わりません。ですから私自身が身振り手振り、表情や感じを織り交ぜて教義するのです。それに私はドジで、ボンクラな気質なので、先生 のはずが、みんなと同級生のような気分で通じ合って、結局、通訳は不要となりました。
毎日、目と口と線の強弱を練習させ、時々は外へ出て、人の動きや車の速さを広げた指の聞から見ては遠近を描写したり、動物園へ行って各動物のクセや動きをスケッチさせました。生徒たちの目が真剣になりました。もともと彼らの絵は一級なので、互いに演技を交わしスケッチさせ、どんどん上達していきまし た。生活の中の少しの動作にも一秒 24 コマを念頭におくよう習慣づけさせまし た。例えば、食事をする時は 7,200 コマとか、あらゆる動きは小声で、口の中で数えます。欠伸は何コマ、小便は何コマと記憶させます。それを鏡を見ながらスケッチします。食
貪欲なまでに理解し、自らのものにしようとするのです。彼ら全員の心の中には、いつか自国のこどもたちに素晴らしいアニメ映画をみせた いと願う夢と希望と、また新たな国の文化を背負ってゆくのだ、という誇りと気概がいつも溢れていました。

そして翌年の夏ごろになって、ようやく彼らの技術がアニメ製作を行えるようになりました。日本へ帰国すると、「第一動画」という製作プロダクションが 結束しており、私はいつのまにかその取締役、製作部長の肩書です。「第一動画 」は、「第一企画」が、アニメ製作のため独立させた会社で、社長は境直哉さんが兼務されてましたが、実質の会社経営は専務の浅井孝長さんが取り仕切っていました。そして常務の庵原和夫さんは、若い頃、同じ釜の飯を食ったアニメーターで、「鉄人 28 号」 や「エイトマン」 の監督をした人でした。その手腕を買われて、数名のアニメーターを引き連れて「第一動画」に移籍してきたのです。
さて、では何をやろうかということになったとき、私が紙芝居を作っていた時の友人、加太こうじさんを思い出したのです。加太さんは「黄金バット」の 作者の一人で、「黄金バット」 といえば、紙芝居最大のヒーローです。日本と韓国が共に手を取り合い最初に製作するアニメには、この日本が産んだ最初のス一パーヒーローがぴったりのように思ったのです。早速、私は加太さんに連絡を取り、庵原さんに紹介しました。私は韓国に戻り、暫くして、「黄金バット」テレビ化の知らせが届きます。
ここからは、大変多忙な日々が待っていました。第一動画から、色つけを担当する木村和夫さんがまず赴任し、その後、又野龍也さんや野田卓維さんといっ た若いアニメータ ) たちも駆けつけ、私と共に指導にあたるようになりました。中でも又野さんは、私が日本へ行って不在のときは、代役を勤めてくれました。
( 図書館の玄関に展示してある「動画辞典」は、このとき使ったマニュアルをコピーしたものです。 )
当時の基本的な日韓の役割は、日本で作った脚本や絵コンテを空輸してもらい、韓国側は中割、トレース、色づけ、背景といった一連の仕上げを行います。こうして仕上げたセル画が再び東京に空輸され、日本のスタッフにより、修正やチェックがされ、撮影が行われたのです。日本側のスタッフには、「東映動画 」や「TCJ」という動画プロダクションから優秀な人材が集っていました。
演出のベテラン、若林忠生さんを始め、背景チーフには草野和郎さんがして、この方の弟子には今最大のアニメ作家、宮崎駿さんもいました。一方の韓国側は、私の思ったほど進歩せず、やはりアニメの難しさを痛感しました。「黄金バット」のオープニングを作らせたら、全く良くない。しかし、もう各社を集めて行う試写の日取りまで少ないので、私は一人東京のスタジオにこもり、セル画を主題歌とシンクロさせるよう手直しし、どうにか公開に間に合わせました。台詞とともに音楽は、動画に大切な要素であります。
また国民性の違いから、絵の中にも韓国色が度々、出て描き直させました。 例えば、ソウルの空は、濁って汚れているのが普通ですから、日本晴れの色が理解できないのです。「黄金バット」と「妖怪人間ベム」 が、どこか他と絵が違うのは、その秘密はここにあったのです。でも無国籍風のあの絵に魅力があったからこそ、今でもこの作品は多くの人の支持に支えられているのですから、何が幸いするか判らないものです。
黄金バット」は、その後日本テレビ系で放送され、人気も上々 で1 年間に 52 本の作品が製作されました。続いて製作に入った「妖怪人間ベム」では、韓国の人たちも、かなり複雑な動作もアニメート出来るように進歩していました。
8O 人の韓国スタップの中にたった一人、 16 歳の少年がいました。最年少でしたが、この少年も、驚くほど上手くなっていました。彼には、子どもの妖怪 人間"ベロ " を描く担当にしました。 3 人の妖怪人間の中でも、特にベロに豊かな表情と、躍動感あふれる動きがあるのは、この子の感性に負うところが大きかったのです。


https://web.archive.org/web/20130130160459/http://www.k2.dion.ne.jp/~nersury/page015.html

 しかし、同時に制作費を抑えるため、セルの枚数や絵の具の使用量に対して 厳しく制限が加わるようになってきました。また、テレビアニメは、一週間に一度放送されてゆくわけですから時間への制約も大変です。「ベム」の頃になると、放送前に、何点か場面を想定し絵のストックをしたり、また一度使ったセル を全く別の日のシーンで再度使用したりもしました。これも放送に間にあわせ、経費を節減するための苦肉の策でした。
また、当時はアニメを海外で製作するということがなかった時代ですから、大切な仕上げの原画が空輸中に没収や紛失、傷つけられるという事件が度々おきていたのです。そのたび「第一動画 」から揃き直しの指令が届き、そこからは何日も徹夜の日が続きました。何日もかけてやっと仕上げたものを、もう一度同じ形に描きなおすのですから、これは精神的にもキツイ作業です。
しかし、そんな時でも韓国の人たちは、寝食も忘れ、私の指示にも答え、黙々と作業を続けてくれるのです。今でも思い出すのは、あの時の韓国の人たちの、まさに献身的な仕事と向き合う姿なのであります。

黄金バット」の勢いをかつて製作された「ベム 」でしたが、当時は期待に反して人気の方は今ひとつでした。やはり、当時としてはモダンな絵柄や、不思議な物語は、まだ早すぎたのかもしれません。当初は一年間放送する予定だったものが、テレビ局側のお達しで、半年の 26 本で打ち切りが決定したのです。
第一動画からの電話では、韓国との提携は打ち切るので、すぐ帰国するようにとのことでした。
当初、韓国との文化交流として始まった私の渡韓ですが、何時の間にか企業の論理にすり替わって私もその歯車に組み入れられていたのです。
アニメの製作には大変な入手が必要です。その制作費の 6 割は人件費です。 当時、日本でもアニメ製作における人件費の高騰や、人手不足がすでに始まっていたのです。日韓両国の繁栄とは名ばかり、つまるところは、韓国の安い人 件費と人手を確保するための下請けに過ぎなかったのです。
私は、何とか東洋放送との提携を続けるよう会社に掛け合いました。が、第一動画では、既に日本国内に新たな下請けの製作スタジオを確保する計闘が進んでいて、私はそこへ出向が内定しているとのことでした。結局、 2 年間の韓国との共同製作は、空輸にかかる経費や度重なるセル画の紛失など、思ったほどに 製作費用が浮かないという判断が会社にはあったのです。
最後には「森川さん、あなたも第一動画の役員なんですから、韓国のことより、まずは第一動画のことを考えてください。」と突き放されてしまいました。
その後、どうにもならなくなった私は 4 年間過ごした韓国を後にしました。第一動画の非情な決定を知ったあとも韓国のスタッフたちは、全員が、空港に私を見送りに来てくれました。別れの日、私は彼らを守れなかったどころか、むしろ会社の手先になって裏切ってしまったという思いから、彼らの顔がまともに見られませんでした。日本人の私に家族のように接してくれた韓国の方たちとの思い出が、脳裏を駆け巡り機悔したのです…。
帰国後、暫くして、東洋放送の重役の方が来日され、浅井専務に物凄い剣幕で怒鳴り込んできたそうです。その方は「森川を出せ」とのことでしたが、会社では、私は帰国後体調を崩して秋田に入院していると嘘までついたそうです。
でも、きっと当時の浅井専務や庵原常務さんは会社を守るため、私以上に必死だったと思います。 「黄金バット」や「ベム 」のあの素晴らしい主題歌や、「早く人間になりたい」という有名なフレーズを考えたのは浅井専務です。それ以外にも企画の殆どで、その卓越したアイディアは数知れません。彼も、「バット」と「ベム」の生みの親であり、また大変な功労者だったのです。
さて「東北新社」 といえば、当時「風とともに去りぬ 」を輸入した大手広告代理店です。ここと、第一動画が提携して、秋田県本荘市に韓国同様の下請けの動画製作スタジオが建設してあり、すでに50 人ほどのスタッフが揃っていました。
日本海の波しぶきが雪と混ざって吹きたてる毎日でした。そして、スタッフも何となく集った人の様でありました。それでも、いつもの私なら根気強く教えられたのですが、当時の私は韓国への断腸の想いから、意欲を失い、このスタッフは使い物にならないと報告をし、ひとつの作品も作らずスタジオを閉鎖してしまったのです。その責任を取る形で、私は第一動画を去りました。
その為、東北新社との提携も白紙に戻り、第一動画には、多大の負債だけが残ってしまいました。今思うと、この私のスタジオ経営反対も、会社にとってはかなりの痛手になってしまったと思います。その後も 「第一動画」に残った庵原さんや、草野さんたちのご苦労は、大変だったと思います。でも、彼らの惜しみない熱意が、この作品を守り、度重なる再放送が今もファンを増やしております。
その後、 3O 数年、私は二度と韓国の地を踏むことはありませんでした。あの空港での別れの日以来、苦楽を共にした韓国の人たちとも、音信不通のままです。 ただ、唯一救いがあるとすれば、「妖怪人間ベム」 と「黄金バット」は当時の日本の子どもたちの心には確実に届いていて、今も生き続けているということであります。私が皆さまに伝えたいのは、あのふたつの番組は、皆さんの知らない名もなき韓国の方々が、それこそ血の惨むような努力を重ねて、作ってくれた ということなのです。もしかしたら仇であったかもしれない、日本の子どもたちに喜んでもらおうと、ひたすら描き綴った事実をお伝えしたかったのです。

来年には日本と韓国がひとつになって、サッカーの国際大会が聞かれます。
これからは国籍が違うとか、言葉が通じないなんて何でもないんです。私たちの世代は挫折してしまいましたが、これからの時代を背負って生きる皆さまは、どうぞ二度と過ちを犯さないでください。
差別をなくして、世界中の人たちと仲良くしてください。 今日は私の拙い話にお付き合い頁き、有難うございました。
https://web.archive.org/web/20130130160023/http://www.k2.dion.ne.jp/~nersury/page016.html

講演後記
さて、皆さま如何でしたでしょうか。
実は、私も子どもの頃から「妖怪人間ベム」も「黄金バット」 も、大好きな作品でして、いつもワクワクしながら観ておりました。しかし、こんな驚きのエピ ソードがあろうとは思いもよりませんでした。
妖怪人間や黄金バットの活躍に胸躍らせた者のひとりとして、森川先生という 一人の天才と、その師を信じた名もなき異国の若者たちの努力に心から感謝いたしました。みなさんもきっと同じ思じ思いかと存じます。

さて、ここでもうひとつ皆さまへ大変なご報告がございます。なんと、先生とご一緒に 「 妖怪人間ベム」「黄金バット」をお作りになった当時の第一動画の製作スタッフの方々が、今日の先生の講演をお祝いしようと駆けつけてくれております。ここで、会場の皆さまに、この素敵な森川先生の仲間たちをご紹介したいと存じます。恐れいりますが、お名前を呼ばれた方は、どうぞお立ちいただき、会場の皆さま並びに森川先生へ一言ご挨拶いただきたいと存じます。まずは、番組のプロデユースを担当され、当時第一動闘の常務取締役であった庵原和夫様です。奄原様いかがでしょうか。
庵原氏「こんな立派な会場で、何十年ぶりに森川さんとお会いできるとは思いもよりませんでした。今、お元気な姿に非常に感動いたしました。韓国時代の想い出というのは、森川さんの人生の中でも最高に充実した数年間だったろうと思います。当時は、私たちも韓国へ行くと森川さんたちのご苦労を見ては、東京の本社へ参りまして社長に報告したり、そして私たちも海外での動画製作の方法を研究したりと、森川さんとは別の意味で殆ど毎日徹夜のような日々を送っていました。そういった意味では、森川さんと一緒に仕事をしたことは、僕にとっても大変貴重な時間でした。ありがとうございました。そして森川さん、どうぞ、まだまだこれからもお元気でいらしてください 」

庵原様は若い頃からの先生のご親友でもあり、今日は何としても森川先生を祝福したいと、かなりの無理をして、はるばる横浜から起こしいただきました。 どうぞ、皆さま大きな拍手をお送りください。
どうぞ、庵原様、これからもお元気でいらしてください

https://web.archive.org/web/20130129082939/http://www.k2.dion.ne.jp/~nersury/page017.html

又野龍也さんより
さて、続きましては先生と共に韓国に渡り、現地指導のお手伝いをしていた当時の若きアニメーターをご紹介いたします。又野龍也さまでございます。又野さまは、現在、画家としてもご活躍でございまして、先生と共に「まんが日本昔ぱなし」などでご活躍されておられます。又野様お願いいたします。
又野氏「どうも、皆さんこんにちは。 ( 表題を指し ) ここに「伝説のアニメータ ー」と書いてありますが、森川さんは我々アニメーターにとりましても、まさに伝説の人であるわけで、雲の上にいるような人です。とにかく、森川さんに追いつかなきゃダメだと、でもどんなに頑張っても森川さんの絵には敵わない。まあ、 森川さん自身の生きかたが漫画そのものという人ですが ( 笑 ) 。韓国の想い出というと、さきほどの森川さんの話とも少し重複するかもしれませんが、今から35 年位前ですね。私が 25 、6 歳、日韓基本条約が結ばれて一年くらい経った頃 です。森川さんは暫らく前に行ってらして、私が後から行かされたんです。当時、韓国は軍事政権でしてね。だから、行ったら殺されるんじゃないかつて真剣に親や友達が心配してくれました。夜は戒厳令が敷かれていて、9 時以降は外出禁止なんです。私がソウルの空港についたのが、夜 1O 時過ぎだったと思いますが、東京から何も食べてなくて、とにかく食事をしたいと思っても応が全然開いてないんですね。一軒だけ果物屋が開いてて、やっとバナナを 3 本買い、ホテルで食べたのが最初の想い出です。今でこそ、素晴らしい文化の国ですが、その当時は本当に大変な国状でしたね。ここで、ホントにアニメが教えられるのかっていう状態で、鉛筆や紙だって満足に揃わないんです。そこで、森川さんと二人で最初3ヶ月位。その後は東京とソウルを行ったり来たりしながら、延べでは半年位いましたね。とにかく、森川さんと一緒に、アニメの「ア の字から教えていったんですね。今、韓国で、アニメーション、大分盛んになっていると思うんですけど、多分私たちが教えた人たちが中心になって、その次の世代がだんだん広めていって、今の韓国のアニメの降盛があると思うんですね。だから、言って見れば森川さんは、韓国アニメーションの育ての親というか、そういうことだと思います。「ベム 」の後、私は森川さんより第一動画を先に辞めたので、今日初めて聞くような話も沢山ありましたね。その後は「まんが日本昔ぱなし」を私がやって、また森川さんと一緒になったんです。森川さんという人はいつも前向きに物を考える、じっとしないで何かをやっていて、それが凄く新しいことをやっているんですね。だから、森川さんは絶対死ぬまでボケない、多分そういうタイプ の人なんですよ。さっき息子さんと話したんですが、たぶんコレが終わったらガ ックリくるんじゃないかって言ってましたけども、僕はそうは思わない。次やることを、もう今から考えてるんじゃないかと思います。まあ、電話ではよく話するんですけども、なかなか会えなかった。お会いするのは今日が十数年ぶりです。 森川さんも 82 歳ですか。本当に日本のアニメ界にとっても貴重な「人間国宝 」みたいな方ですからね。とにかく、これからも頑張って、まあ、頑張ってというと無理しそうですから、マイペースでコツコツと、あまり急がずにやってください。
そして、これからもどうぞお元気で。」

又野さま、どうも有難うございました。お2人とも日本が世界に誇る「ジャパ ニメーション」の屋台骨を支えた一流のアニメーターでございます。また、「ベ ム 」という歴史的番組の当時の製作者たちが、3O 数年の時を経て今、一堂に 会したというのは、ここ嵐山町始まって以来の大変な事件ではないで、しょうか、
さて、ご講演の中にありましたが、心優しい先生は、今も韓国の弟子たちを欺いてしまったという後悔の念をお持ちです。しかし、実はこのストーリーには後日談がございますので最後にご披露させていただきます。あの韓国での辛い別れから 3O 数年たった昨年の夏、ある日、先生のご自宅へ一本の国際電話がか かってきました。電話の主は、なんとアノ日の韓国の生徒の一人からです。彼は片言の日本語で一生懸命に語ってくれたそうです。「森川先生、お元気ですか。多分、先生は覚えてないかも知れませんが、私はあのとき先生にアニメーションを教えていただいた 8O 人の生徒の一人です。お陰さまで今も先生に教えていただいたアニメを仕事に生活してます。これも、先生が一生懸命、教えてくださったお陰です。やっと、先生にお礼がいえました。」とのことでした。この方が、 電話をかけてくれたことで、恐らくは先生もほんの少し心のつかえが救われたのではないでしょうか。
先生は 2 度、海外で、アニメを指導されています。最初が戦時中に渡った中国、そして、今お話のあった韓国です。私は思うに、先生が渡ったこの時、史上初めてこの2 つの異国へアニメーション技術が伝わったのではないでしょうか、そして、これが原点で、その後現地の方の努力により、アニメが根付いたのではないでしょうか。そう考えると、韓国や中国での、今日のアニメーション産業隆盛の影には、アニメの伝道師・森川先生の惜しみない努力と、平和を願う心が絶対にあるように思うのですが、皆さん如何でしょうか。
お話の最後にありましたが、先生の願いは、民族や国籍を超え、地球に暮らす全ての人間が皆、仲良く暮らす社会の実現です。
来年のワールドカップ日韓共同開催の反面、今まさに首相の靖国参拝や、はたまた歴史教科書問題など、半世紀を経た今もなお戦争の後遺症は続いています。
ですから、皆さん。今の時代を生きる私たちは、今こそ、かなわぬまでも絵によって世界の人たちの手を繋ごうとされた森川先生の果敢な人生に感謝し、そして誇りに思おうではありませんか。そして、今日からみんなで努力しましょう。
それでは、今日素晴らしいお話を頂きました森川先生と、そして 「 妖怪人 間ベム」という素晴らしい作品を私たちに残してくれた素敵な仲間たちに、もう一度大きな拍手をお送りください。

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」