まだ僕らの知らないヒロシマ
▼被爆後半年の広島、米調査団の遺族が写真提供
>原爆投下の約半年後に広島や長崎を訪れた米国戦略爆撃調査団のメンバー、ハーバート・スッサン氏(1922〜85年)の遺族が13日、広島市の広島平和記念資料館を訪れ、スッサン氏が保管していた被爆地などの写真210枚を提供した。
>広島で撮影された43枚のうち23枚は同資料館が確認していなかったカットで、担当者は「復興の兆しがうかがえる貴重な写真」としている。
・・・
>同資料館で記者会見したレスリーさんは「父は生前、『自分も(残留)放射線を受けた。広島では復興に向けたエネルギーを感じた』と話していた」と語った。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090713-OYT1T00996.htm
・・・ハーバート・スッサン氏といえば、
少し古い記事にこういうものもある。↓1999年。
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kioku/toku.html
>「当時の悲惨な光景が昨日のことのようによみがえってくる」。一九八三(昭和五十八)年十二月、三十七年ぶりに被爆地広島を訪れ、ケロイドの残る被爆者らをカメラに収めた広島逓信病院(中区東白島町)の屋上に立ったハーバート・スッサンさんは言った。
>「一階は外来患者がいっぱいで撮影できなかった。被爆者にこの屋上に上がってもらって・・・」「よく覚えていますよ、撮られた時のつらかったことを」―スッサンさんに同行した被爆者の一人がこたえた。
>米戦略爆撃調査団のチーフカメラマンだった。焦土と化した日本各地を巡り、当時としては珍しいカラーフィルムで爆撃の効果を収めた。だが、四六年二月に長崎、三月に広島に足を踏み入れたスッサンさんは、あまりの破壊のすさまじさと、なお続く被爆者の苦しみに接し「人生観が変わった」と言う。
>「自分は軍人だったけど、二度とこのようなことがあってはならないとの思いで撮影した」。スッサンさんは自分の思いを被爆者に打ち明けた。その年の暮れに除隊後、テレビプロデューサーとして働きながら、軍事機密として政府管理下に置かれたフィルムの公開を求め続けたのも「核戦争のむごさ、愚かさを伝えたい」との一心からだった。
>「私もヒバクシャです」。リンパ節がんや脳腫瘍(しゅよう)の手術で三年間入院生活を続けたスッサンさん。取材でその場に居合わせた私は、スッサンさんの動作や口調がゆっくりとしている理由をその時知った。 ・・・
▼写真集を出しています
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kioku/990608.html
▼写真の中に兄の名が
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kioku/990613.html
▼写っているのは私です
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kioku/990616.html
・・・このようにして今も歴史は「発掘」されている。いずれまたどこかで、このようなことがあるはずだ。