■
『時をかける少女』を見てきました。すばらしかった。
SF的な観点からすると、「おいちょっとまて」と言いたいところは幾つかありますし、
「ここから」って道路標識をはじめとして、いろいろ謎も多いのですが、
ぶっちゃけそういうことはどうでもいい、とにかく俺はこの映画が好きだ。
原田知世バージョンがくれた幸福感とは全く異なる、新しい疾走感がここにある。
そして主人公の泣き顔。あれはアニメ史上に残ると思います。
もうひとつ。もはや感嘆するばかりの山本ニ三の背景も、この映画の主役のひとつです。
今年の夏、ジブリ映画がくれなかった感動をアナタに(@∀@)
▼最近「富田メモ」問題について対談した際の、宮台発言ピックアップです
@ミヤダイドットコム
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=393
>ドイツは感情ゲームと契約ゲームの緊張関係に敏感なの。先のドイツ映画もそう。感情はどうあれ契約意思の表明抜きじゃ生き残れない。仕方ないと。日本はそこに思いが至らず感情ゲームで噴き上がる。感情は過去に理由があり、契約は未来に理由がある。罪は過去を志向するが、責任は未来を志向する。未来を先取りするには契約ゲームしかない。ドイツのすごい所は「ドイツは人々の感情に公的に対処します」と言い切ること。日本の場合は逆で「公的に決着がついたものに感情で来られても無視します」。当然、人気と信頼が落ちて外交的リソースが削られる。西尾幹二はこの辺の日独比較が全然出来ていないの。
>日本の左翼が欧州の左翼と違うのは、感情ゲームを超えるロジックを持たないこと。最終的には感情に勝るものはないとするのが右翼。でも論理を使えないという意味じゃない。ところが日本の似非右翼は福田和也や西尾幹二を含めて論理を使えない。他方で、最終的には感情よりも論理が勝るとするのが左翼。でも日本の似非左翼は論理を使えない。論理を使えないという意味で同じ穴のムジナなの。僕は右翼だけど、論理の使用を徹底重視する。戦後日本の似非右翼と似非左翼は、感情に流される点で同じ田吾作でしょ。生き残れるわけがない。子孫に申し訳がたたないよ。感情ゲームを越え、論理が要求する「仕方なさ」に身をさらせよ、ヘタレども。
・・・「生き残り」よりも「玉砕」を選ぶのが大日本帝国クオリティ(@∀@)
頼むから俺や俺の家族や友人を巻き込むのはやめてくれないかw