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「根深い侵略主義」とどう決別するか 

▼「根深い侵略主義」とどう決別するか 
06.4.10 
弁護士 毛 利 正 道


第一 71年間、3世代にわたる根深い侵略の歴史
(年表形式のところも、読みにくくてもぜひすべてお読み下さい)


1 対外侵略の思想とその国民への徹底 


1855 吉田松陰松下村塾にて、伊藤博文山県有朋ら後に明治政府を支える塾生80名に「軍備を充実して、朝鮮・中国(東北部・台湾)・フィリピンまで掠取すべき」と教育
1868(m1)・明治天皇の親筆・趣旨「日本は、武力をもって四方の諸国を征服する」
神仏分離令天皇を現人神とする」国家神道の始まり、明治末には確立
1872(m5)徴兵制
1879(m12)「天皇のために死ぬ臣民を祭神とする」靖国神社発足(名称変更により)
1882(m15)軍人勅諭天皇の軍隊、上官の命令は天皇の命令」
1885(m18)福沢諭吉「脱亜論」「日本が西洋に占領されないようにするには、西洋と同様のやり方で中国・朝鮮に接し処分すべき」
1890(m23)・教育勅語「日本は古来より天皇の国、いざとなったら天皇のために死ね」
山県有朋首相「外交政略論」「主権線を守るには利益線を守るべき。朝鮮が、日本の利益線である」
1907(m40)帝国国防方針     
・「満州・韓国・南方の利権を益々拡張する」「将来の敵と想定−露米独仏」 
・ 大規模軍備増強方針
・ これ以降、全国くまなく軍人OB組織「帝国在郷軍人会」作り本格化



2 71年間間断なく続いた、領土拡張欲求による海外での軍事力行使(=侵略戦争


1874(m7)「台湾征伐」   豊臣秀吉以来、初の海外侵攻
・ 台湾に漂流した琉球民が原住民に殺害されたことを口実に、3658名を派兵して占領した。そこには、「この地を我が領土と為し」(福島種臣対清国全権大使の発言)との領土拡張欲求があった。
1875(m8)江華島事件  海軍軍艦が、韓国海岸で露骨に挑発。これに韓国側が砲撃したのに対し、上陸して城内に押し入って報復攻撃を行い、民家を焼き払った。
1894.7.23日本軍が韓国王宮を軍事占領して、国王に対し清国軍を追い出すことを日本に求めさせた
1894.7.25ー1895.4(m27-28)日清戦争 
韓国を支配し中国にも侵出することを目指した日本の侵略戦争
1894.9 朝鮮の「牙山(がざん)に乱入し、無辜の朝鮮人3,000余人を虐殺」(当時の新聞)
1894.11 旅順市民皆殺事件 侵攻していった日本軍に抵抗した中国人がいたことに対し、報復として(死体処理班36名を残し)女性子ども含む市民18,000人以上を皆殺しにした。その周囲でも同様な虐殺事件多数の模様。
1895.4(m28)講和条約 朝鮮の(中国からの)独立・「更に南方に侵出するための飛石」としての台湾などを得る・中国東北部での権益拡張
1895.5-1915台湾植民地戦争(20年間)
台湾住民の抵抗を排除する戦争-17,000名以上の住民を殺害
1895.11 三浦駐韓公使らの画策により、親日派兵士と多数の日本人壮士らが王城内に侵入して、日本に対して批判的であった韓国の王妃閔妃を殺害。親日派が政権を奪取したクーデターとなった。
1900(m33)義和団鎮圧戦争
        
中国民衆の反帝愛国の蜂起に対し、日本軍を主力とする8カ国連合軍が中国に侵入し、蛮行と略奪を働いた。1901の議定書で、日本は中国に1,970名の軍隊を駐留する権利を得た。これが、1937日中戦争開始の遠因となる
1904-1905(m37-38)日露戦争
        
南樺太を奪い、韓国保護権・中国東北部への各種利権獲得 
1905(m37)韓国との「保護条約」 
この後の軍・民衆による抗日闘争に対し、1913年までに17,779人殺害(=韓国植民地戦争)
1910(m43)韓国併合条約  1876日韓修好条規・1905とともに、軍事脅迫の下で
1914-1918第一次大戦    南洋群島委任統治(実質植民地)
1918-1925シベリア出兵  日本の傀儡政権樹立を狙い、国際協定枠7,000人をはるかに超える72,000人を派兵し、各国が撤兵しても、7年間も居座る
1918     ロシア革命後の条約で、他国から奪った領土すべてを返還
1919     韓国3.1独立闘争 殺害7905名殺害との数字もある
1928    不戦条約 侵略戦争の禁止 日本も加盟
1931    「満州事件」中国東北部への侵略戦争開始
1932 「満州国」建国        平頂山事件 住民3000人虐殺
1933 国際連盟満州事変の侵略戦争性を指摘され、日本が脱退
1937 中国への本格的侵略戦争開始
1938 ノモンハン(「満州」とモンゴルとの国境)事件 日ソ双方で16,000人死亡
1941.8.14大西洋憲章英米) 「領土拡大禁止」「国民が望まない領土変更禁止」
1941.12 太平洋戦争開始
1945.2 フィリピン マニラ市聖パウロ大学での日本軍による800人男女虐殺事件
1941-1945太平洋戦争での死者だけで、日本310万・他国1800-2800万人
       日本陸軍が、1937-1945に投入した兵力だけで700万人



3 日本の侵略戦争の特質


(1) 71年間、ほとんど継続して軍事力を行使してきた。台湾50年・韓国40年・中国15年以上に及ぶ憲兵特高による日常的な弾圧(中国では加えて、現地調達方針を基盤とした「三光作戦」)、韓国で500万人・中国で200万人といわれる強制的「労務供出」を含めれば、その被害の時間的空間的規模は凄まじい。
(2) それが、無計画になされるのではなく、一貫した海外領土の拡張要求と用意周到なまでの国民精神総動員態勢によってなされている。
(3)ここで特に、山県有朋の「利益線論」について触れておく。彼は、吉田松陰から海外を掠取すべしと教えられた後、明治政府になってから徴兵制・軍人勅諭を実施、自由民権運動大逆事件の弾圧に辣欄をふるった。総理大臣となってすぐに発表した「外交政略論」において、「欧米列強のなかで国家の独立を維持するには、国家の主権の及ぶ範囲(主権線)を守るだけでは足りず、主権線を守るために必要な区域(利益線)まで確保しなければならない。現在の我が国の利益線の焦点は朝鮮にある」と主張した。この論理によれば、利益線の範囲に明確な制限はなく、どこまでも拡張していけることになる。文字通り、強盗の論理である。
   実際、陸軍の元帥であった彼は、韓国をほぼ手中にした1906年には、今度は将来の日本にとって中国が利益線になるとして、中国侵略を国策とするように天皇に進言し、翌年の帝国国防方針に結実させた。
(4) 明治の始めから、日本の独立を維持するためにどう見ても不可欠とは言えない台湾を、その更に南方に侵攻するための飛び石としても狙って派兵しており、現に1895年という最も早い時点で植民地にしている。とても、日本が西洋の植民地にならないためのやむなき選択であるなどと言えない。
(5) しかも、明治になって間もない1894年時点で既に、旅順市民虐殺事件など一連の一般住民虐殺事件を起こしている。「ある家のオンドルの上で、ひとりの女性のまわりを四、五人の子どもが囲んでいた。大きい子は八、九歳で、小さい子は女性の胸のなかで乳を吸っていた。全て日本兵によってオンドルの上で刺し殺されていた。ある老人は戸口のそばで刺し殺されていた。どうやら老人は門戸を開けて出てきたときに殺されたようだ。ある部屋には、死体があちこちに無雑作に置かれていて、殺された者の大部分は老人、子ども、女性であった。」とは、井上晴樹氏の著作による旅順での光景である。当時から三光(奪い、殺し、燃やし尽くす)がなされていた。このような文字通り、無辜の住民殺戮は侵略(奪う)目的でなければ出来るはずがない。
(6) ほかの欧米諸国も植民地獲得戦争を行っていた時代ではあったが、以上を見ると、71年に亘る日本の海外侵略は特別に暴力的であったと言える。欧米列強が似たことをやっていたからと言って、韓国・中国の人々と日本とは、被害者と加害者の関係にあることは動かせない。加害者は被害者に対して、謝罪と賠償をする義務がある。特別に暴力的であったなら、求められる謝罪と賠償の程度が高まることになる。
(7) また、(これはよく言われていることではあるが)とりわけ、1931年以降の15年戦争は、民間人1,000万人を含む1,900万人という大規模な犠牲を出した第一次大戦への反省と、奪った一切の領土を返還したロシア革命の優位性を踏まえて1928年に世界の大勢が調印して成立した不戦条約に、真っ向から次々に違反し続けたものであり、どんな詭弁を弄しても弁解できるものではない。



4 対案としての真の日韓中連帯論


(1) 明治以来、欧米列強の植民地主義に対抗するためにアジアが力を合わせることの必要性は多く主張されてきたが、その多くは日本政府の国策を支えるための大東亜共栄圏的な「日本を盟主とする連帯論」であった。
(2) これに対し、明治初期の自由民権運動のなかで、植木枝盛・樽井藤吉・大井憲太郎らは、自由民権論を支えていた自由平等原理を国際関係にまで及ぼし、アジア諸民族の民主的連帯による欧米列強への対抗を主張した。また、孫文1924年12月の神戸での講演(「大アジア主義」とする演題ではあったが)とその直前のインタビューで「日本は、西洋の覇道の番犬になるのではなく、アジアの一員に帰り、まず第一に、(1918年に革命成った)ロシア革命政権を承認すべきだ」と語り、平等な連帯を主張したという(松下政経塾23期生・小野貴樹氏)。伊藤博文を殺害した韓国の英雄=安重根も、韓日中3カ国の連帯で欧米列強に対抗することを主張していたと聞いている。
(3) さらに、1922年に結成された日本共産党は、再三に亘り、海外からのすべての日本軍の撤退と、万国の人民の結集を訴えていた。
(4) このように見ると、日本に侵略・支配された韓中の人びとからみれば、欧米列強に対して独立を維持するために三国が連帯して対抗する道があったのに、日本はその道を取らずに侵略・支配を重ねたとしか思えない。これに対して、加害者である日本が「日本が独立を維持するためにやむを得なかった」などと、被害者である韓中アジアの人びとに対し言えるべくもないこと自明である。このような道があったのに、敢えて侵略を重ねたという事実は、日本の悪質性を増大させるのである。
(5) それにしても、明治の時代の三国平等連帯論は現実政治を動かす力になり得なかったが、百年後の今日、日中韓北朝鮮が、お隣のASEANのように対等な地域共同体になる現実的展望が見え始めている。歴史の前進を感じさせる。


5 ドイツとの比較


(1) ドイツでナチスが勢力を伸張し始めたのは1925年、政権を奪ったのは1933年であり、敗戦までせいぜい20年にすぎない。しかもドイツの最高指導者ヒトラーは敗戦までに死亡しており、戦犯を免れ「国民統合の象徴」として戦後44年間生きながらえた天皇を持つ我が国とは「雲泥の差」である。日本は、71年間3世代に亘って「天皇の臣民」として国民精神を総動員してきたのであり、生き残った膨大なその国民が戦前と明確に一線を引くこと極めて困難なまま、戦後日本を支えてきたのである。ドイツと比べものにならない侵略戦争性の根深さに留意すべきである。
(2) しかも、ドイツにおいても、敗戦時にナチス党員が800万人残っていたのであり、戦後直後の国民意識としてもナチスヒトラーに好意的なものがあった。このような中で時間をかけて議論を国民の中で重ねて、「過去の克服」に取り組んできて今日に到達しているのである。東大教授の石田勇治教授が、「それは当初から何らかの方針を持って臨んだからとか、ドイツ人が道義的な高みに立っていたからではなく、一つ間違えば出来なかったかも知れないギリギリのせめぎ合いの結果に他なりません」と述べているとおりなのであろう。
(3) となれば、この日本でドイツと同レベルの「過去の克服」に達するためには、そのドイツでのギリギリの努力を上回る総体としての力を持つに至ることが必要である。 



第二 新たな闘いのために


1  戦後の出発点としての根深い侵略主義の自覚


(1) これまで述べてきたところによると、戦後日本はその出発点において、支配者を含む全国民規模において、根深く侵略主義に染まっていたということになる。私は、このことをあらためて自覚することが大切だと思っている。
(2) これに加えて、戦後、東京裁判天皇が裁かれることなく、21万人が対象となった旧軍人・軍国主義者などの公職追放も1952年までに解かれ、総理大臣・国会議員・自衛隊員・裁判官などに次々に復帰し、日本を明治初年以来の戦争肯定国家に復帰させる方向に国民をリードしてきた。日本を反共の防波堤としたアメリカの下で。
(3) その証拠を一つだけ挙げておく。外務省が1950年5月31日付で作成した「平和問題に関する基本的立場」には、大要
  ①植民地になった地域の発展に貢献した、いわば「持ち出し」になっている
  ②台湾・樺太・朝鮮・南沙群島の取得は合法的であった、他国も同様にやって来ている
 と記載されている(吉岡吉典氏の論文所収)。
  日本が明治初年以来、一貫して軍事力を行使し、また、行使するとの脅しによって、アジアの国々と民衆数億人の人生を破壊してきた、自らの歴史に対する加害者としての自覚があれば決して言えない言葉である。
(4)国会議員が100人近く毎年列をなして靖国神社を参拝する姿は異様であるが、これが現在の到達点である。国家の指導者が、国民の戦争アレルギーを取り払うべく、戦後60年間一貫して努めて来た結果である。これでは、ポツダム宣言で世界中から日本に求められた「軍国主義勢力の永久除去」と「民主主義の復活強化に対する一切の障害の除去」の実現は、容易ではない重い課題と言わなければなるまい。



2 靖国・歴史教科書問題


(1) 靖国神社の主張も、扶桑社の歴史教科書も、言っていることは、明治初年以来の国策推進論とうり二つである。まるで、日本軍国主義の敗戦・ポツダム宣言の受諾と日本国憲法の制定が無かったかのようである。その点では、「根深い侵略主義」を証明しているようなものである。
(2) しかし、根深い侵略主義によって、71年間に亘って艱難辛苦を舐めさせられてきた中韓アジアの人びとにとっては(そして日本人にとっても)、その被害が根深いからこそ、過去の根深い侵略主義が、現代においても無反省のまま幅をきかすことなど決して許すことが出来ないのである。
(3) 靖国神社参拝を中国から批判された小泉首相が「私自身の心の問題にすぎない」と言い返したのに対し、中国指導者は「それでは、(中国侵略を指揮命令したA級戦犯を神としてお参りすることなどとても許せないという)中国13億人のこころの問題はどうするのか」と問い返した。これは、単なる国家指導者としての駆け引きからの発言ではない。私が05年12月に若者らと訪中したときに会った北京大学の学生も、戦前人口800人の村で4年の間に100人以上の村民が殺害された河北省北淇村(ホクギソン)の村人も、「謝罪も賠償もしないうえに、靖国参拝とは許せない」「また、日本軍がやってくるのではないかと心配している」と言っていた。北京大学の学生は、1894年の旅順市民皆殺し事件が残虐場面の写真付きで載っている高校2年生の歴史教科書を見せてくれたし、北淇村(ホクギソン)の村人は、近隣の小中学生が日本軍の蛮行を学習するためによく訪れていると言っていた。事実をよく知っている彼ら被害者とその同胞のこころの問題を無視して良いはずがない。



3 憲法9条の重み
(1) このような戦後日本で、戦力不保持を決めた憲法9条がなかったらどうなっていたであろうか。論証は試みないが、強大な軍隊を持ち、おそらく、朝鮮戦争ベトナム戦争・アフガンイラク戦争やアジア各地の民衆蜂起鎮圧などに、そして、日本民衆の闘いを鎮圧するためにも出動させているであろう。
(2) このような事態は、日本国民にとっても大変な苦難であるが、1945年までにアジア各地で日本軍によって痛めつけられてきた人びと・国々にとっては、絶対に避けたいものである。日本国憲法9条はどんなことがあっても絶対に失ってはいけないのである。



4 憲法9条を支える人びと


(1) 上記のごとき根深い侵略主義に染まっていたはずの日本の民衆は、しかし、他方で、戦場で「銃後」で、艱難辛苦の人生を送ってきていた。「こんなひどいことはもうこりごりだ」、これが大方の国民意識であったことも事実であった。これに、戦前から戦争に反対していた人びとや、新しい憲法の下での教育・社会体験のなかで新たに育ってきて憲法を大切にしたいと思う人びとが加わってきた。
(2) この点、朝日新聞が1955年以来実施している世論調査では、「正式に軍隊が持てるように憲法を改正する」という質問に対して、1955年当時は40%だった「反対」が、その後増加し続け、1990年には80%にまで達した。1997年以降に設けられた質問項目「憲法九条を変えない方がよい」を支持する数値も増加傾向で、2001年には74%だった。「変えた方がよい」が14%増えた04年5月1日の調査でも、「変えない方がよい」はいまだ60%であり、「変える方がよい」の31%の倍。ほぼ二五年間にわたり、9条改正反対派が三分の二を占めている。
 04年2月の朝日新聞は、この現象を指して「9条の受容基盤だった戦争体験は、年とともに風化している。ところが、9条の支持は現在も高い。これは、軍事に努めて慎重に『相対的な平和国家』を模索し、成果も上げてきた戦後体験が、戦争体験と入れ代わりに支持を再生産してきたからではないだろうか」と評価している。現在、全国4000をはるかに超えた9条の会とこれに結集する極めて幅広い国民もいる。9条への支持が瓦解しているわけでは決してない。
(3) 1955年の保守合同以来50年間、9条改憲を狙う日米支配層の動きの中で、9条を守り支持し続けている国民が3人に2人はいるという。根深い侵略主義と強大なアメリカの圧力のもとでのこの現状は、実はすごいことではないのか。
   しかし、いま狙われている改憲がなされても、その結果、自衛隊員がアメリカ軍とともに世界各地で戦闘行動し、おそらくせいぜい自衛隊員数百人が死ぬという結果が来るのであって(それはそれで大変な事態であるが)、戦前のように多くの国民自身が直接痛い目に遭う可能性は低い。その点では、自国の人びとのいのちを大切に思うだけでなく、自衛隊や米軍によって殺される他国の人びとのいのちをも大切と思う人びとが多数になっていかないと、足下をすくわれる恐れがある。その点でも、戦前の加害者としての被害者に対する日本の戦争責任を今果たす必要があるのだと、多くの国民によく分かってもらうべくアピールしていく運動は貴重である。



5 戦後司法を担う裁判官


(1)戦前は、司法権天皇の名において裁判所が行う(憲法57条)とされており、身分保障などの「司法権の独立」もあったと講学上はいわれている。しかし、裁判官は、検事とともに司法大臣から任命されており、各裁判所には検事局が置かれていた。その検事局の検事は、全国一体であるからぽつんと置かれる裁判官に比してあまりに強大であった。また、従来は何も問題にされなかった天皇機関説が、軍国調深まる中で検挙されるとこれに有罪を下すなど「昭和になりますと、もう情勢に片っ端から迎合していくような、そしてその情勢を促進する機能を果たすような裁判官のあり方がかなり目立ってくる」「司法権の独立自体が根本的に実は非常に局限された形でしかなかったんじゃないか、ということが非常に感じられるんです」(「日本政治裁判史録 昭和下」における雨宮昭一氏発言)という実情にあった。むろん、ほとんどの裁判官が、闘う民衆の弾圧に手を深く染めていた。
(2)その裁判官が、戦後、誰一人公職追放になっていない。従って、司法大臣から任命されていて、実態としても国体護持に汲々としていた裁判官が、戦後そのまま裁判官を務め、三権分立を厳格に定めた新憲法に基づくはずの戦後司法の中枢を担ってきたのである。これ自体驚くべきことであるが、それだけでなく、戦後しばらくすると、軍国主義に染まったとして公職追放された者を始め、いろいろな反憲法的傾向の裁判官が、保守内閣が任命する最高裁によって送り込まれてきた。
戦前検察首脳を歴任して公職追放された池田克が、追放解除2年後の1954年に最高裁判所判事となり9年間在職。公務員の労働基本権に否定的な判断を繰り返したほか、松川第一次上告審では有罪との意見であった。「満州国」の裁判官であった飯守重任は、戦犯として撫順に抑留され、反省文を書いて帰国したが、「あれは偽装の作文だった」とうそぶき、鹿児島地裁所長時代の右翼的言動によって解職された。戦前裁判官であった石田和外は、最高裁判事を10年務め全農林警職法事件での古い人権軽視の判例復活などで辣腕をふるったほか、飯守らとともに青法協会員裁判官攻撃の先頭に立った。飯守の実兄で戦前内務官僚だった田中耕太郎は、2代目最高裁長官となり安保条約を合憲とした砂川事件判決を下したり、松川事件での広津和郎氏らの裁判批判に挑戦する訓示を行い、世論の猛烈な批判を浴びた。
(3) 戦後の裁判所は、平和・人権・国民主権を旨とする日本国憲法を担うべきものとしては、基本的に失格の実態にある。それは、裁判官が戦前と連続していることが最大の原因ではないか。根深い侵略主義をきちんと総括し反省する機会がないまま、もしかしたら、日本国憲法を厳守する旨の宣誓もしないまま、ただそのまま裁判官で有り続けた人びとによって戦後司法の核心が形成されてきているというこの根源に注目したい。



6 戦争責任追及戦後補償裁判


(1) 中国人戦争犠牲者の要求を支える会に結集した戦後補償裁判が、10年間闘われてきて、この間5回の勝利判決を得、どの法律的論点も一回は判決で認容させてきた。しかし、その後、04年12月以来の東京高裁での逆転を含む6回連続の敗訴と、今年3月の長野・福岡二つの強制連行裁判の地裁敗訴が続いた。(ただし、この10年の裁判闘争の中で、南京大虐殺・731・慰安婦・強制連行・毒ガス・平頂山などほとんどすべての事件で、ひどい事実があったことを判決文で認定させており、それは、06年4月2日に発表された中国国内の裁判所に対する強制連行被害者の提訴、今後増大するであろうこの種の提訴に大いに資するものになるであろう。「中国国内での闘いに大きな灯をつけた」高橋融弁護士―ことは疑いない。)
(2) これは、日中関係が厳しくなっていることも反映しているのであろうが、しかし、2600人の帰国残留孤児のうち、2100人8割が原告となって起こしている裁判でも、05年6月に大阪地裁で敗訴した。そこでは、戦争被害は、等しく多くの国民が受けたものであるから受忍すべきと、(おそらく、戦前との連続性を有した裁判官によるものでもあろう)従来の判例を踏襲した判断が示された。日本人すら救済する必要がないのなら、外国人である中国人を救済する気にはなかなかなるまい。
(3) また、「東京裁判史観は日本の戦争に対するいろいろある見方の一つ」と言われるようになっている、最近における過去の侵略戦争に対する批判的視点の風化が中国人裁判連敗のベースになっていることもあろう。この批判的視点の風化は、自動的なものではなく、教育での意図的な無視・ねじ曲げ、並びに靖国神社に代表される戦争肯定論とそのマスメディアでの持ち上げによるところが大きいとよく言われる。
  しかし、私は、この論説で述べているような71年間に及ぶ格段に暴力的であった日本の指導者による侵略戦争の実相を、トータルに分かりやすく広く国民・裁判官に伝えることがまだまだ弱い、そこが基本的な問題ではないかと思っている。日本指導者の根深い侵略主義による狙いと加害・被害の実相が浮き彫りとなり、しかも裁判官自身の立脚点が問い返されるとき、「国民も中韓の人びとも、ともに堪え忍ぶべき」との判決を出して済ますことは極めて困難になるのではないか。


   私は、今、この論説の趣旨をきちんと裁判官に示しつつ、日本国憲法のもとでのあるべき裁判官像を問いかけたい思いであり、5月25日(木)13:30から名古屋地裁民事4部で行われるイラク派兵差止第6次訴訟第一回口頭弁論における、原告としての40分間の意見陳述でまず実行し、さらに中国人強制連行長野訴訟控訴審・中国残留孤児長野訴訟にもつなげて行きたい。

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」