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・・・忙しい毎日の片手間に、ちょっと戦争に反対してみる。
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・・・「マンガ嫌韓流」や「つくる会」教科書が
必死で目をそらすニュースの時間です(@∀@)
100年ぶりに、ある重要文化財が里帰りです。

▼「北関大捷碑」を韓国に引き渡し (@産経新聞)
http://www.sankei.co.jp/databox/n_korea/nkorea_14_1.htm
豊臣秀吉朝鮮出兵の際に現地の義兵が秀吉軍を破ったことを記念して現在の北朝鮮北東部の金策に建てられ、日露戦争中に日本に渡った石碑「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」の韓国への引き渡し式が十二日、碑を保管している靖国神社(東京・九段)で行われ、神社、外務省、在日韓国大使館の三者が返還の合意文書に署名した。碑は数日中に航空機で韓国へ移送された後、北朝鮮側に引き渡される。
>同神社で行われたセレモニーには、南部利昭宮司と在日韓国大使館の秋圭昊公使、引き渡しの仲介をした外務省の福島啓史郎政務官が出席。福島政務官が「靖国神社は、引き渡しが日韓両国民の友好増進に寄与することを希望する」などとした合意文書を朗読。三氏は署名の後、笑顔で握手を交わした。
>引き渡しをめぐっては、識者から「『日露戦争の略奪品を奪還した』という虚偽の反日宣伝に利用される」「最終的に北朝鮮に渡るなら『まず拉致被害者を返せ』と言うべきだ」などと慎重論が出ていた。

・・・最後の段落で、いかにもくやしさ大爆発
あのー、石碑は勝手に日本に渡ったりしないんですけど(@∀@)
ていうか日露戦争のどさくさまぎれに皇軍が国宝級の石碑をパチってきたのは事実なんですけど何か。
しかし名前も出せない「識者」って誰でしょうか
・・・しかも、そんな貴重な遺跡を、いままでわりとむぞうさに屋外に放置してきた靖国神社
↓こんな感じで。

▼民団新聞
http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=116&corner=1
>機関車のすぐ脇に、靖国「名物」の白い鳩のための鳩舎があって、鳩舎と機関車の間の目立たない場所に、「北関大捷碑」はかつて置かれていた。しかも、屋根もなく野ざらし状態で(現在は、碑に木製の小さな屋根がかけられ、突っかえ棒で支えられている)、鳩の糞にまみれていた。
>その後、遊就館の拡張にともなって、広場にあった蒸気機関車や大砲などは建物内に収められ、碑は別の場所に移されることになった。現在は、本殿に向かって左脇にある、元宮並びに鎮霊社とよばれる小さな祠の横に置かれている。

▼北関大捷碑元地移送趣旨
@日韓仏教福祉協会(今回の移送を実現した原動力となった団体)
http://www.h7.dion.ne.jp/~bankoku/nkb/hokkandaishohi_01.html

>さて、靖国神社の片隅に「北関大捷碑」という古い石碑がひっそりと建っている。ほとんど知る人もなく、注目されることもないこの碑が、韓国・北朝鮮においては国宝的価値を持つということを知れば驚くことだろう。
>この碑は、今から約400年前、豊臣秀吉朝鮮出兵の際、義兵たちが日本軍を撃退した戦功を記念して、現在の北朝鮮咸鏡北道に建てられたものである。
・・・

・・・人んちのものを返すのに100年かけて、しかもしぶしぶ嫌々。

▼北関大捷碑、100年ぶりの帰還
(@東亜日報)
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=060000&biid=2005030290428
靖国神社側はこれまで、「日本のものではないので、必ず返す」と返還の当為性は認めながらも、「元々北朝鮮にあったものであるだけに、国交正常化後に北朝鮮に返す」、「日本政府がここに持ってきたのであり、政府から返還要請がなければならない」という言い訳を述べ、返還を拒否してきた。

こういうのって、なんていうんだっけ・・・その・・・
・・・「盗人たけだけしい」?(@∀@)

▼民団新聞
保護国化の〝土産〟…「日本史」創出工作の一環
>この碑は、もともと咸鏡北道吉州牧臨溟駅にあった。北関大捷碑の「北関」とは、咸鏡北道・摩天嶺以北地域のことで、「大捷」とは「大勝」の意味である。秀吉の第一次朝鮮侵略壬辰倭乱文禄の役)のとき、吉州一帯で加藤清正軍と交戦し、ついには撃退した義兵の将・鄭文孚(チョン・ムンブ)の功績を称えたものだ。
>秀吉の朝鮮侵略のとき、朝鮮や明の正規軍とは別に、各地の実力者が地元の農民などによる義兵を組織し、勇猛果敢に戦っていた。咸鏡北道では、鄭文孚を将とする義兵が有名である。
金石文として歴史上重要な資料であり、そのまま母国にあれば国宝クラスの文化財がなぜ靖国神社にあるのだろうか。
日露戦争当時から、日本は韓国のロシア国境へ軍隊を派遣していた。そのとき吉州に進駐した日本軍の北韓進駐軍司令官後備第2師団長であった三好成行中将(池田少将との説もある)が、終戦後の1905年に帰国したさい(1907年という説もある)、日露戦争勝利と乙巳条約(第2次韓日協約)締結による韓国保護国化の戦利品、いわば「凱旋土産」としてこの碑を持ち帰ったとされている。
>もちろん住民は、故郷の誇りである碑の持ち出しに反発した。そのときの地元住民への説得理由が、「碑文に書かれている、義兵が清正軍を破ったという内容は、日韓の親睦を保つ上で感情的に障害になる。撤去し、日本に持ち帰る」というものであった。名目は何であれ、当時の韓国の一地方住民には、日本軍の意志に屈服するしかなかったのであろう。
>この頃、日本陸軍参謀本部は、朝鮮半島や旧満州地域に多数の諜報員を派遣して、金石文の大掛かりな調査を展開していた。言うまでもなく、それらの記述をアジア各地への侵略に歴史的な整合性を持たせるように「解釈」するためである。その典型が、有名な「好太王碑」である。・・・


・・・2ちゃんねるでは、いまだに「あれは盗んだんじゃない。もらいました!」と強弁するコピペがあるが、この資料にはでっかい穴がある。(@∀@)

http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1128869393/225より)

225 :マンセー名無しさん :2005/10/13(木) 10:40:07 id:Vj4NQB1e
昨日、靖国神社に設置されている北関大捷碑が韓国に返還って
ニュースがいくつかの局で放送されたみたいだけど、
ちゃんと略奪じゃないことを説明したのかね?


【噴水台】 北関大捷碑
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=68527&servcode=100
1905年に日露戦争を起こした日本軍は、この碑石を略奪し、軍国主義の象徴である靖国神社に放置しておいた。

日本に略奪された「北関大捷碑」が返還へ
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/01/20050301000028.html


「北関大捷碑」は、石碑を建てた人の子孫との正式な譲渡契約を作っています。

日本公文書館・「アジア歴史資料センター
加藤清正・征韓記念碑下付出願の件(Reference-Code : C03026852200)
によると
「・・建設者ノ子孫ニ諮リテ其承諾ヲ得今回還送シ来リタルモノニ有之・・」とある。

現代語に訳すと、
「・・建設者の子孫に意見を聞き、その承諾を得て、今回(日本に)持ち帰ってきたものである」
証拠の文書は、アジア歴史資料センターのサイトで
キーワード検索に「大捷碑」と入力すると出てくる画像のうち、
画像上部に「1530」という数字が逆さまに押されている頁を参照。
http://www.jacar.go.jp/index.html

・・・「じゃあその「建設者ノ子孫」って誰なんだよ」という疑問に、この資料はいっさい言及しないのだ。そんな人が実在したなら名前ぐらいは書けるはずだし、そもそも肝心の契約書はどこにあるのか。


・・・いまだに靖国ですら「誰から」「誰へ」譲渡されたのか明示できないでいるこの事実、戦前は国威発揚にさんざん利用したものの、敗戦となってみればいかにも都合が悪いシロモノ、持っているだけでいかにも「帝国主義ファシズム時代の証拠品」、かといって捨てるに捨てられず(バレたら大事)、やむなく目立たない所にひっそりと隔離せざるをえない。今回やっと厄介ばらいできて一息ついているわけだ。

▼半月城通信
http://www.han.org/a/half-moon/hm006.html#No.50
>先日、この碑について私は飛び込みで靖国神社宮司に会って話を伺っ
てきました。
といっても、宮司は口が重く、北関大捷碑については多くを語ろ
うとしませんでした。碑文の内容はもちろん、誰がこの碑を日本へ持ち去った
のかすら教えてもらえませんでした。

>それにもめげず何とか話をつなぎ、次のとおり伺うことができました。
>1。この碑は日露戦争の時「戦利品」として日本へ運ばれた。
>2。戦前、この碑は神社内にあった陸軍の博物館、遊就館(86年再開)に寄
 贈された。そうした経緯から、碑は館近くの現在地に置かれている。
>3。いずれしかるべき所へ返したいが、朝鮮が統一されていない現状ではそれ
 もむずかしい。ただし、今まで返還要求はどこからもなかった。
>4。韓国からはマスコミが何回か取材に来た。
>5。保存状態について、現状はプラスチック波板の屋根があるだけでちょっと
 お粗末ではないかとの批判もあるが、石碑はもともと雨ざらしにされるもの
 なので必ずしもこうした批判はあたらない。
>5。拓本は複写に当たるので神社としては許可しない。拓本は神社でとったも
 のを保存している。

靖国神社に「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」を訪ねる 
@橿原日記
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_07_01.htm
日露戦争の時「戦利品」として日本へ運ばれた碑は、戦前、神社内にあった陸軍の博物館、遊就館(ゆうしゅうかん、後述)に寄贈された。そうした経緯から、碑は遊就館近くの地に置かれていると思っていた。ところが、あちこちに設置された靖国神社境内案内図には、碑の所在が記されていない。拝殿にいた警備員に尋ねて、やっとその場所がわかった。南門の左手にある林の中にあるという。ちょうど拝殿の左側回廊の外側に位置する。
>いったん南門の近くまで出て、日本庭園に続く林の中の道を進んでいくと、右手に鉄柵で囲まれた一画が見えてくる。柵の間から中を覗くと、簡単な形ばかりの屋根で覆っただけの2m近い石碑が建っていた。それが「北関大捷碑」だった。周囲には標識や説明板といったものが、なにもない。数奇な運命によって、よりによって靖国神社の境内の、それも人目につかない場所に置かれた石碑は、見ようによっては、かっての大日本帝国の虜囚のようにも見える。400年の星霜を経た歴史的記念碑は、それにふさわしい待遇を受けているとはとても思えない。・・・

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」