オトタケ君の見解から欠落した論点の指摘:ファシズム肯定と官民癒着
▼乙武洋匡公式サイト
# 2005.08.22 「つくる会」の教科書
http://sports.cocolog-nifty.com/ototake/2005/08/post_214d.html
# 2005.08.26 反対派の論点
http://sports.cocolog-nifty.com/ototake/2005/08/post_ef1f.html
# 2005.08.31 複眼的な視点
http://sports.cocolog-nifty.com/ototake/2005/08/post_6a7b.html
・・・欠落した論点のメモ。思いつくままに。
(1)歴史教科書の議論に「いい」「悪い」を持ち込んでいるのは「つくる会」だけ。教科書に求められるのは、歴史に関する基本的な事実の提供であって、各社教科書もその観点でつくられているのだが、「つくる会」教科書にそれは期待できない。
たとえば、日露戦争に関する記述。日本国内での根強い反戦論(幸徳秋水らの社会主義運動や、内村鑑三のようなキリスト教徒など)が存在したことについて、「つくる会」教科書は一切触れておらず、そればかりか与謝野晶子の『君死にたもうことなかれ』についてはシカトを決め込むありさま。
『君死にたもうことなかれ』
http://www.interq.or.jp/diamond/onecarat/favorite/p3.html
ひとことで「日本の立場」といっても、その内部には多様性や分裂が存在するのだが、「つくる会」教科書は為政者の(特に大日本帝国政府の)立場を代弁し、それ以外の意見を無視する。たとえ歴史の基礎知識を欠落させてでも!
・・・ゆえに、有名私立進学校は「つくる会」教科書を選ばないのである。
多くの教科書>>>>>>越えられない壁>>>「つくる会」教科書
(できるだけ複眼的) ←−−−−−−−−−−−→(はっきりと単眼的)
・・・オトタケ君は、「複眼的な視点から、他社教科書と『つくる会』教科書の併用を」というのであるが、「複眼的な視点」は「つくる会」教科書にこそ要求されるべきものである。
(2)「つくる会」は他社の教科書を読まずに批判している。有名な事例として、1998年1月31日の『朝まで生テレビ』での喜劇。「つくる会」側が「慰安婦などの強制連行などなかった!なのに他社の教科書は・・・」と主張するのに対し、「扶桑社以外の教科書にも『強制連行』という言葉は載っていない」ことが指摘された。藤岡信勝が「強制的というふうにも読めるような書き方をしてある」などと面白いことを口走り、失笑を買った。
「日本がつねに悪玉として描かれてきた教科書」・・・これこそは「つくる会」が他社の教科書を攻撃する際の物言いである。いったいどこを読めばそういう理解になるのか、具体例を挙げて欲しいものだ。そもそも、歴史学習に善だの悪だのを持ち込む発想こそが奇妙なことである。事実認識に善悪は関係ない。また「日本がつねに悪玉」などというが、そもそも日本人すべてが同じ考え方をしたことが、歴史上一度でもあったろうか。あの大日本帝国のファシズム体制下でも、さまざまな反戦・厭戦感情が存在した事は、当時の『特高月報』にハッキリと記録されている。(@∀@)
(3)大日本帝国型ファシズムの免罪。
現在の日本における自由や民主主義、国民主権や人権思想、平和主義などは、かつての大日本帝国型ファシズムの否定の上に成立しているが、「つくる会」はむしろファシズムに親和的である。(現に、大日本帝国型ファシズムを全体主義とは認めていない。)
というのも、「つくる会」の母体となった組織「日本会議」こそは、国家神道(=大日本帝国型ファシズムの精神的バックボーン)の継承者であるから。
(4)教科書採択における、「資本主義のルール=公正な競争」の否定。
「つくる会」教科書の採択された地域は、まず首長が「つくる会」や「日本会議」の関係者ばかりである。(たとえば石原都知事や杉並区長は「つくる会」賛同者。)それが自分の好みに合わせた教育委員を任命して「つくる会」教科書を採択させるという、官民癒着もはなはだしい事例が見られる。これは資本主義のルールである「公正な競争」に反する。
公費を使って、自分の身内の業者(扶桑社&つくる会)を儲けさせてやろうとする区長や都知事・・・
子供に説明するのが恥ずかしいようなマネは、してほしくないものである。
▼『エレクション』
2005年08月25日 第43回オンライン世論調査最終結果発表
「オンライン世論調査 衆議院選挙世論調査 」
http://www.election.co.jp/news/2005/news0825.html
・・・社会党の選挙キャッチフレーズがいちばんマシという皮肉。