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・・・忙しい毎日の片手間に、ちょっと戦争に反対してみる。
最短30秒からの反戦と平和のアクション。萌える反戦運動!
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・・・『無言館』の記念碑に、赤いペンキがかけられた。

▼<戦没画学生>「無言館」の慰霊碑に赤ペンキ 長野・上田
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050618-00000079-mai-soci
>18日午前9時ごろ、長野県上田市古安曽にある戦没画学生の作品を収めた美術館「無言館」(窪島誠一郎館長)で、前庭の慰霊碑「記憶のパレット」に赤いペンキがかけられているのを職員が見つけ、県警上田署へ通報した。同署では悪質ないたずらとみて器物損壊の疑いで調べている。

・・・もちろん、その意味は明らかだ。
「おまえらは戦争に反対する非国民、アカである」ということにほかならない。
九条の会」などの講演会などに協力している、館長の窪島氏へのいやがらせだ。

無言館
http://homepage2.nifty.com/K-Ohno/a-map/Nagano/3616-MK-museum/02-MK.htm



▼戦没画学生慰霊美術館
無言館」館長 窪島誠一郎さん
http://www.jichiroren.jp/nakama/2002/350/350-11.html
無言館」を建てたのは、戦争を告発し、平和をアピールするためではありません。私の養父母は戦前靴屋をしていましたが、戦争で家を焼失し、靴磨きをして育ててくれました。「戦争さえなかったら、誠ちゃんを学校にあげられたんや」という父母のグチを聞くのが嫌いでした。戦争など考えずに、高校を中退してから金儲けだけを考えてきました。
 17の職業を転々としてから、ここ上田で村山槐多など夭折の画家のデッサンを展示する信濃デッサン館を開きました。
 画学生の絵を集めることになった理由は、絵にかける画学生の思いの純粋さに心を打たれたこと。もう一つは、冷酷に養父母に接してきたことへの思いがあったのかもしれません。戦争と向き合わず生きてきて、父母の生きた時代を知ろうともしませんでした。
 鹿児島県の種子島出身の画学生、日高安則さんは戦地のルソン島で27歳で亡くなりました。彼は、出征直前まで恋人の絵を描きつづけていました。「生きて帰ってこの絵の続きを描くから」と言い残して戦地に。
 「館」の一番前に飾られている彼の絵の裏側に、「小生は生きて帰らねばなりません。絵を描くために」との言葉が残っています。
 静岡県浜松市出身の中村萬平さんは、満州の武川で26歳で病死しました。出征した時、妻は妊娠していました。妻は産後の肥立ちが悪く、出産後半月で他界しました。妻の死も、我が子の顔も知らず、中村さんは満州で死にました。
 彼らは戦争を告発するために絵を描いたのではありません。生きている証として描いたのです。描かれている彼らの親や兄弟などに、濃密な関係を見ることができます。私たちが失ったものです。
 彼らの絵は、いまを生きる私たちのあいまいな生き方を告発しているように思えます。そこに気づかない限り、彼らの命の輝きを目にしない限り、輝きを断ち切った戦争の闇にも本当は気づかないのではと思います。
・・・・・・
 彼らの絵の前に立つと無言でいるしかないから「無言館」と名づけたといいます。年間11万人が訪れます。




硫黄島での政府主催の戦没者追悼式
小泉純一郎首相の追悼の辞 全文
http://www.sankei.co.jp/news/050619/sha041.htm
(掲載されたのは産経新聞だけど記事は共同通信w)


 終戦から、60年の年月が過ぎ去りました。激戦の地、硫黄島では日米両国の2万8000を超える方々が、祖国を思い家族を案じながら、命を落とされました。今日の平和と繁栄は、こうした方々の尊い犠牲の上に築かれていることを思い、戦没者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げるとともに、衷心より敬意と感謝をささげます。

 わが国は、戦後一度も戦争に参加せず、また、巻き込まれることもなく、平和を維持してきました。今後も、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、世界各国との友好関係をいっそう発展させ、国際社会の一員として、世界の恒久平和の確立に積極的に貢献してまいります。

 この地に眠る御霊(みたま)の安らかならんことと、ご遺族の方々の今後のご多幸を心からお祈り申し上げます。

・・・さて、この中にウソはいくつあるでしょう?



・・・硫黄島の戦いは、明らかにおかしい。
人が死にすぎている。
・・・1945年2月16日から米軍による艦砲射撃と空爆が開始され、3月17日ごろには日本軍の組織的抵抗も終息、その後も散発的に戦闘は続いたが・・・
戦死者は米軍約28600名約6800名(戦死傷者約28600名)、日本軍約21900名約20100名(戦死傷者約21900名)。
1944年にはすでにサイパン・グアム・テニアンが米軍によって制圧され、日本本土への長距離空爆が開始されていた。すでに戦争の流れは決している。
これは戦争として何かが間違っている。日本軍はもとより、米軍サイドにも明らかな作戦ミスが存在していた。


・・・だから、日米いずれの立場からのものであろうと、硫黄島の戦闘を何か「勇敢さ」や「壮烈さ」に結びつける言説は信用できない。
地熱でうだる土中のトンネルの中をはいずり、硫黄や重金属の味がする水を飲んで下痢をしながら、死ぬ順番を待ちながら行う戦闘を、「玉砕」などといったキレイな言葉で表現するのは、やはりサギだろう。

▼祖父の硫黄島戦闘体験記
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/
>私の祖父は昭和61年に他界しました。それからもう20年近くが経とうとしていますが、祖父は「戦闘体験記」なる手記を残していました。祖父は明治45年(大正元年)生まれで、日中戦争当初から4度にわたって召集を受け、太平洋戦争中は最大の激戦地の一つ「硫黄島」へ従軍していました。戦後、その時の記憶や手帳に書いてあった記録を元に書き残したようです。
>この手記は大きく分けて3部構成となっており、第1部と第2部は中国戦線、第3部が硫黄島戦の記録となっています。このページでは硫黄島戦の記録を公開しています。
硫黄島では約2万1千の日本兵が戦い玉砕、生還したのはわずか千人ほどだったといいます。祖父の所属していた混成第一旅団工兵隊は、278名中13名しか生還しなかったとのことです。
硫黄島での体験を綴った非常に貴重な手記を記録として残さねばと考えた時、ホームページ上での公開という方法を思いつきました。以下、戦闘体験記を公開しています。

・・・この手記は硫黄島の戦いのあとも続いている。書き手は捕虜となってアメリカに連行され、2年後に日本に帰国する。悲しい出来事が待ち受けている。
・・・同じ作者によるHP↓。

硫黄島探訪
http://www.iwojima.jp/
※写真など多数。
>9.硫黄島戦資料他
http://www.iwojima.jp/data.html
> 硫黄島の地図
> 硫黄島戦の経過
> 硫黄島戦の両軍の損害
> 米海軍艦艇の被害
> 主な指揮官 
> 両軍の主な火力
> 米軍の投降勧告ビラ
> ある兵士の手紙から
> 海軍第二〇四設営隊と朝鮮人軍属について

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」