▼2ちゃんで撒かれているコピペ
※以下はhttp://sports2.2ch.net/test/read.cgi/iraq/1106931184/で採取。
399 :国連な成しさん :05/02/03 21:22 ID:???
そもそも「「従軍」慰安婦」という単語自体が戦後25〜30年ぐらいたって
から創作された新造語なのです。造語された目的は反日運動のためです。
歴史的事実を検証するのなら、その当時に使用されていた文言はなんだったの
かを明確にすることが必要です。
「従軍」という言葉が入る事例としては「従軍記者」「従軍看護婦」というの
が良く知られた例であり、これらは軍が明確に関与した場合に「従軍」という
名称がつきます。従い、朝日新聞や反日主義者は、むりやりに「軍の関与」を
イメージ付けたいので、当時は存在していなかった「「従軍」慰安婦」などと
いる造語を新設し、歴史を捏造し、捏造した歴史で日本を批判しているのです。
こんな卑怯な振る舞いが許されるわけはありません。
ありもしない事象を捏造し、その捏造した事象で批判したい相手を批判すると
いう手法で日本を批判し、今度は同じ手法で安倍・中川両氏を批判しているの
です。要するに、反日主義者にとって両氏が脅威で目障りだということです。
・・・では、「その当時に使用されていた文言」にのっとり、「朝鮮ピー」と呼ぶがよろしい。
▼元日本兵の証言に見る日本軍慰安婦
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper02.htm
元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。
「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)▼NHK・ETV特集から消された戦場の証言/2000年12月に行なわれた女性国際戦犯法廷
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/syougen/nhk_special.htm
>検事 金子安次さんは1920年1月28日生まれ、80歳ですね。あなたは1940年11月に北支那方面軍に入隊されたのですね。
>金子 はい。
・・・
>検事 今のは、あなたが軍隊に入って「慰安婦」の輸送にかかわったときの出来事ですね。それでは、次にあなた自身が「慰安所」に行くようになったときの体験をお話し下さい。
>金子 私が一番最初に「慰安所」に入ったのは、昭和18年のことでした。それは、臨清県というところにいたときです。当時私たちは「慰安所」とは呼びませんでした。「ピー屋」と呼んでいたんです。
以下、再掲。
▼第11軍、麻生徹男軍医による具申書「花柳病の積極的予防法」(1939年)
http://www.han.org/a/half-moon/hm028.html#No.207
http://www.han.org/a/half-moon/hm028.html#No.208
>「軍用特殊慰安所は享楽の場所にあらずして、衛生的なる共同便所なる故・・・」
▼半月城通信「慰安婦」
http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#ianhu
・・・従軍慰安婦問題は、女性に対する性的搾取という大きな問題のひとつでもある。
▼からゆきさんの小部屋
※江戸時代の末〜明治・大正、昭和の初め頃、海外で娼婦として働かされていた日本人女性達について。
http://www.karayukisan.jp/index.html
>Q3:なぜそんな仕事を?
>まず第一に貧困です。当時の日本は貧しい人が多く、カネをかせぐために娘たちが当てにされました。また、日本には室町時代から続く公娼制(女性を廓に閉じ込める管理売春)があり、親が娘を売って、受け取ったカネで生計を立てていく風景は珍しくなかったのです。国が、そういう権限を親に認めていました。家や親兄弟のために苦界に身を沈める娘は親孝行、と世間はみるのが普通でした。からゆきさんの場合は、かせぐ場所がたまたま国の外であったということです。
・・・
>Q6:自分の意思で出て行ったの、だまされて?
>一番多いのは、だまされて売られたケースでしょう。女衒(ぜげん)とよばれた人商人(ひとあきんど)(人買い人売りを業とする者)に、「シンガッパ(シンガポールのこと)のホテル奉公は大きなゼニになるぜ」などと、ことば巧みにだまされたのです。そして外国の貨物船の船員などとグルになって、下関や門司、長崎や口之津、あるいは神戸、横浜や清水の港などから密航させたのです。それらにかかった費用と称して、当時の金でおよそ500円ぐらい、今でいうと500万円ぐらいを本人の借金とさせたのです。それを返すために、売られていった地でどうしても稼ぎをしなくてはならなかったのです。ちなみに、今も密入国や偽造のパスポートで日本へやってくるジャパゆきさん(男も含めて)たちは、同じ額ぐらいの手数料を払っているようです。
>次に、自分の意思で渡った人も少なくありません。同じ村の知り合いや親戚に連れ出されたり、大金を手にして着飾って帰ってくる成功したからゆきさんを目のあたりにして「あたしも――」と自分の一存で決める者もいました。ことに島原・天草でそういう話をききます。
>3つ目として、親が女衒(ぜげん)その他にカネをもらって売り渡したケースです。なかには7歳で売られた子もいるそうです。
・・・
>Q12:で、本人たちは最後はどうなったの?
>私が各国に散らばる日本人墓地にあるからゆきさんの墓を調べて、一体いくつぐらいで亡くなったんだろうと平均寿命を出してみたら、21,6歳でした。これは昔風の”数え”の歳であって、今風の"満"の数え方でいくと20歳ぐらいになります。半分ははたちそこそこで死んでいってることになります。売られて4、5年でマラリアなどの風土病、性病、肺病、阿片などで若い命を散らしていったのです。故国の家族は命日を知ることもなかったでしょう。仕送りがこなくなると、何かあったのでは、と案じるだけだったでしょう。
>日本人墓地に墓を建ててもらったからゆきさんは、私の考えでは100人に1人、多くて2人ぐらいのものだったでしょう。ほとんどはそこいらで焼いて埋めるか、海や密林に放り投げるか、だったといいます。まだ息はあるのにワニのえさに売られた娘も少なくない、と語った人もいます。
>身請けされて、現地人や中国人、あるいは白人の妻となったり、セカンドワイフにおさまったりする者もたくさんいました。日本人同士で所帯をもった者もいました。
>太平洋戦争のはじまりと同時に日本に戻された者も多いのですが、戦中・戦後も異国にあって、誰知らずひっそりと世を去る老からゆきさんも多くいました。現在ではどの国にも、生存しているからゆきさんはいないと思われます。