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・・・忙しい毎日の片手間に、ちょっと戦争に反対してみる。
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新作アニメ『学園黙示録 HIGH SCHOOL OF THE DEAD』が意外にイイことについて。

・・・脚本の黒田洋介の力だとおもうのだけど、1話目からものすごいテンポだ。
毒島先輩が剣をふるう構えで腰が入っていないのはヘンなんだけど、それ以外は調子よく見ていた。
なお原作漫画は読んでないので知らない(@∀@)アニメ終わったらチェックしてみる。

▼公式
http://www.geneonuniversal.jp/rondorobe/anime/hotd/index.html
▼第1話
http://www.youtube.com/watch?v=usAOCrH-i0g
第2話
http://www.youtube.com/watch?v=usAOCrH-i0g

・・・エンディング曲が毎回変わる・・・ってのもなかなか。
・・・「オブ・ザ・デッド」といえばもうロメロのパクリもいいところなのだが、小泉がイラク侵略戦争に協力したあたりから日本もゾンビ映画の似合う国になってきたように思うので、まあこういう作品の登場は必然だろう、と。理性的な思考能力を持たず、多勢を恃んで破壊と憎悪を感染させることしかできない「生きた死人」が何を意味するかは言わずもがなだ。
(追記:『アイアム ア ヒーロー』はマシスンの小説とその映画=「吸血鬼」もののパクリなのだが、にもかかわらずゾンビが登場する、というなんだか不徹底な話。俺はあまり評価はしてない。)
 そういえばロメロ爺さんがこないだ作った映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』がなかなかよかったことを思い出した。
ダイアリー・オブ・ザ・デッド プレミアム・エディション [DVD]
最新作『サバイバル・オブ・ザ・デッド』は評判がイマイチではあるが、それでも「一応見とこうか」と思うのはロメロだからこそだ。

ジョージ・A・ロメロ/ゾンビの世界 ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド Chapter 4
http://cinemafreezone.fc2web.com/zombie3-4.html
(リンク切れ。この文章が掲載されていたCINEMA FREE ZONE http://cinemafreezone.fc2web.com/ は現在は更新停止されている。以下はグーグルキャッシュから拾ったもの)
アメリカの悪夢
>『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』とそれが公開された60年代後半という時代との関係性についてもう少し考察してみよう。
>『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が製作された1968年、当時17才であった後の映画監督ジョン・ランディスは、ドライブインシアターでこの作品を観て強烈なショックを受けたと『アメリカン・ナイトメア』(2000)の中で語っている。
>『アメリカン・ナイトメア』とは、ジョージ・A・ロメロやトビー・フーパーウェス・クレイブンデヴィッド・クローネンバーグジョン・カーペンターといったホラー映画界の巨匠たちが60年代後半から80年代初頭にかけて発表したフィルムに、「アメリカの悪夢」がいかに投影されていたのかということを回顧したドキュメンタリー映画だ。
>自由と民主主義の理想の国家であるというのが光の部分であるならば、それが実は内部に大きな矛盾と問題を抱えていたという、アメリカ社会の光に対する影の部分が露呈したのが60年代後半という時代だった。
ベトナム戦争の泥沼化、人種暴動の勃発、政府の信用の失墜などで社会への不信の念が沸き起こり、それに対して若者が中心になって学生運動カウンターカルチャーという形で政府や既存の価値そのものにNOを突きつけるといったように、当時のアメリカは混乱の極みをみせていた。
>「アメリカの悪夢」とは、アメリカ人(カナダ人)である監督たちの個人的なトラウマに基づくものであるとともに、60年代後半という時代を境に露なものとなったアメリカという国が抱える「暗闇」のことである。
>60年代後半の社会の変動は、アメリカ文化の象徴である映画産業にも影響を与え、従来のハリウッド映画のような予定調和的世界は若者にそっぽを向かれ、それに対して、若者の好みや本音をスクリーンにストレートに投影させた作品として、アメリカン・ニューシネマが台頭してくる。
>そこには従来のハリウッド映画のようなステレオタイプの人間像に変わり、悩み苦しみ屈折した人間くさいキャラクターが登場し、きらびやかな世界や完全懲悪のストーリーに変わって、泥臭く必ずしもハッピーエンドでは終わらないより現実的な世界の像が描き出された。
>60年後半から70年代初頭にかけてホラー映画を撮り始めた前述した監督たちは、アメリカン・ニューシネマがその一端を炙り出したアメリカ社会の現実のさらに奥深い暗闇、従来のハリウッド映画ではなかなか映し出されなかった光に対する影の部分を、人間や社会の暗部を映し取ることにかけては一日の長があるホラー映画という装置を通して、本人たちがどこまで自覚的だったかはともかく、より鮮烈により過激に描き出したともいえるだろう。
>そして、その先鞭をつけたのが『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』という作品だった。
キング牧師が暗殺された年である1968年に公開された『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は(ロメロはそのニュースをニューヨークにラッセル・ストライナーとともに『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を売り込みにいく途中で聞いたという)、以前から、映画と当時の社会情勢とが関連付けて語られることが多い。
>両親が娘に惨殺されるシーンはカウンターカルチャー学生運動にみられた世代間闘争を表していると分析され、ゾンビとの死闘から一人生き残った黒人青年のベンが白人自警団のような集団にあっけなく射殺されその死体が無残に焼かれてしまうというラストは、当時の公民権運動や人種暴動の渦中で迫害されていた黒人を暗示させるというふうに。『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を語る上で60年代後半という時代はもはや切っても切れない関係となっているのだ。
>『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』における黒人青年ベン
>『アメリカン・ナイトメア』の中でジョン・ランディスも触れているように、当時でもまだ黒人が主人公の映画はとくにSFやホラーでは皆無に等しく、それは観客に違和感を起こさせるに十分なものだった(今でこそ黒人が活躍する映画も珍しくなくなったが、私もはじめて『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を観たとき、白黒の画面のなかで黒人が主人公として活躍していることに違和感を覚えたという記憶がある)。
>とはいうもののロメロが『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の主人公に黒人を選んだのもたまたまなら、衝撃的なラストシーンも単に人を怖がらせようとする意図しかなく、そこには政治的な意味合いは込められていなかったともいわれている。
>そもそも粗野なトラック運転士であったベンという役は黒人を念頭に書かれたものではなかった。紳士的なデュアン・ジョーンズが役に決まったことでキャラクターが多少変更されはしたが、脚本が書き直されることはなかった。たまたまデュアン・ジョーンズが知り合いの俳優の中で一番優れていたから起用されただけで、黒人だから彼が選ばれたわけではなかった。
>それが事実なのだが、映画を観た者の多くが、この映画に当時の人種暴動や黒人差別やブラックパワーの台頭を暗示させるものを感じとり、そのラストにおいて少なからぬショックを受けることも間違いない。
>『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』でベンをゾンビと誤って射殺する白人の自警団は、公民権運動が盛り上がり、人種暴動が頻発した時代、犬を引き連れ有色人種を威嚇し暴力を振るっていた実際の白人たちの姿に重なるし、映画のラスト、射殺されたベンがモノかゴミのように扱われ焼却される静止画は、黒人にリンチを加えていた現実の人種差別主義者たちを捉えた映像などと結びついて見えてしまう。その時代に対する少しばかりの知識があれば、どうしてもそのように見え感じられてしまうのである。
ロメロが黒人を主人公に選んだのは偶然であったのかもしれないが、結局60年代後半という微妙な時期に、ほとんど自主製作であった「自分たちの映画」の主役に黒人を据えることに彼らがなんの抵抗もおぼえなかったという事実が重要になってくるのだろう。その感覚が、後のシリーズにおいて、ロメロが黒人をはじめとするアメリカ社会におけるマイノリティに重要な役を担わせていくことに繋がっていくのである。
>『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』において、唯一の黒人であるベンは、異常事態の中で恐れ慄く白人たちの中、一人冷静さを保ち、強いリーダーシップを発揮しようとする。だが、それが逆に彼を一人浮いた存在にし、周囲との軋轢を生じさせ、あげくの果てにはゾンビとの戦いに一人生き残ったというのに、結局は同じ人間である白人に撃ち殺されるという悲惨な最期をむかえさせてしまう。このベンの悲惨な顛末は、当時の時代状況と照らし合わせて様々な深読みができる部分だが、なにかそれが白人の世界にまぎれこんでしまった一人の黒人の悪夢のようにも感じられてしまう。
>『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が醸し出す一種独特の雰囲気は、「突如として死者が蘇り人肉を求めて生者を襲い始めた」という不条理な状況から生じているのは間違いないが、それに負けず劣らず、悲惨な顛末を迎えることになるベンの物語からもそれは生じている。文字通り虫けらのように死ぬ『変身』のグレーゴル・ザムザや、処刑場で無残に屠殺される『審判』のヨーゼフ・Kのようにその最後はあまりに不条理だ。この点では、「リビング・デッド」三部作のなかで『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が最もカフカ的な作品であるともいえるだろう(続くシリーズや『ザ・クレイジーズ』はカフカ的というよりも、厳密な意味で不条理文学の作家であるアルベール・カミュの『ペスト』のような作風に近いともいえるだろう)。
>ロメロの批判精神
>確かに以前のロメロは、当時の時社会情勢については常日頃から仲間内で議論していて、それが『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を製作する際にも影響したのかもしれないが、黒人の起用など意識して政治的な含みを込めたわけではなく『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』はあくまで人を怖がらせるためのホラー映画として撮ったものだといった趣旨の発言をしていた。
>それが最近の発言になると、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は大きな社会の変革を感じさせた60年代後半という時代が色濃く反映された作品であり、ゾンビはブルーワーカーであり、既存の社会をひっくり返す革命の担い手であるなどと政治色を強調するものがみられるようになった。
>これは、製作当初、ヒットはしても俗悪な映画とのレッテルを貼られた『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が作品として少しずつ評価を高め、60年代後半という特異な時代と絡めて真面目に論じられることも多くなってきた中で、後付で言っている部分も多々あるのだろう。
>ただ、これは先に少し触れたが、ロメロの中にもともと社会や人間存在に対する批判精神やそれを風刺する才能があったことは、後のシリーズやそのほかの彼の監督作を観ても明らかなところである。そういう作家性を持ち合わせていたロメロは、劇場長編映画を初監督するに際しそれを自覚的にやった部分と無自覚にやった部分があった。そして作品が自分の手を離れ、世間で評価されていくなかで、自分の批判精神や風刺の能力を自覚し、その後のシリーズではより意図的に、そういった要素を作品に盛り込んでいくようになったのだ。
>ロメロのアメリカ社会に対する批判精神は、『ゾンビ』にあっては高度消費社会のなかで無批判・無個性の受身の消費者と化してしまった人間を「生ける屍」にたとえて風刺し、『死霊のえじき』ではレーガン政権下保守化・右傾化し核戦争の恐怖に怯える80年代前半のアメリカ社会を地下施設で横暴な態度をみせる軍隊と民間人の対立を通して風刺するというようにシリーズを通して受け継がれていく。
>また鈴木透氏は著書『性と暴力のアメリカ』の中で、アメリカという国が建国以来いかに暴力と親しい関係にあったのかを解き明かしているが、憲法修正条項の第二条で民兵の存在と武器の所有を認められてきたこの国は、独立戦争、インディアンとの戦い、南北戦争と近い過去に国土を血に染める殺し合いを繰り広げ、リンチはときに白人プロテスタントの共同体を守るために正当化されその矛先は黒人をはじめユダヤ人など有色人種に向けられ、殺人事件の発生件数はほかのどの国と比べても異常に多いというように「暴力の大国」である。ロメロの「リビング・デッド」シリーズを観ていると、そういった「暴力の大国」としてのアメリカの性とでもいうべき暗黒面が垣間見えてもくるのである。
>60年代後半のアメリカ社会の混迷期に映画監督としてデビューしたジョージ・A・ロメロは、同時期のアメリカン・ニューシネマの作品がそうであったように、本人の自覚さえ越えた部分でアメリカ社会の光に対する影の部分をスクリーンに映し出した。
>その後、アメリカン・ニューシネマが衰退し、再び批判精神など皆無のハリウッドの娯楽大作が勢いを盛り返していくなかにあっても、ロメロはピッツバーグのインディペンデント系の映画監督としてハリウッドから距離を置き、撮りたいものだけを撮り続けた。そのため映画監督としては不遇の時代が長かったかもしれないが、孤高の映像作家としての地位をくずすことなく現在にいたっている(ロメロには、スティーブン・スピルバーグジェームズ・キャメロンサム・ライミなどのように低予算のジャンル映画からハリウッドのメジャー映画にステップアップするというような器用さはなかった。また撮りたいものを撮るといってもロメロには常にホラー映画が求められるという実状もあった)。
>そのようなロメロの批判精神は21世紀の世の中にあっても健在である。
>2001年9月11日に起こった「米国同時多発テロ」は、アメリカという国がいまだ多くの問題を抱えていることを露呈させた。「リビング・デッド」シリーズの最新作で21世紀のゾンビ映画となった『ランド・オブ・ザ・デッド』は、そのようなテロ後に露となった問題多きアメリカの社会構造とそれを取り巻く世界情勢、その渦中に生きるアメリカ人の心理状態などが反映されたより鋭く社会を風刺した作品に仕上がっている。
アメリカはいまもなお「悪夢」を見続けているのだ。

「憲法9条で、アタマ悪い『対テロ戦争』をかしこくサボろう
「愛国心とか夢見てんじゃねーよw
 国家は国民を守らない。君の生活とか老後は特に。」
「日の丸・君が代とか強制してると国が滅びますよ!(@∀@) (例)大日本帝国」