・・・これはひどい(@∀@)
▼リバタリアンとしてのマルクス
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51441856.html
>菅首相の「第三の道」や神野直彦氏の「強い社会保障」に共通にみられるのは、マルクス主義の影響である。浜田宏一氏の本にも「日本資本主義論争」が出てきて驚くが、彼らの世代まではマルクス主義の影響は圧倒的で、団塊世代ではマルクスと心中して人生を棒に振った人がたくさんいた。彼らに共通しているのは、資本主義が必然的に分配の不平等を生み出すので、それを政府が是正しなければならないという平等主義だ。
・・・プッ(@∀@)敵対する党派を「共産主義主義だ」「マルクス主義だ」と決め付けるのは中二までにしませんか。ニューズウィークがうまいこと書いてましたね。「オバマを社会主義者だという奴がいるが、もしそうならウォーレン・バフェットもカール・マルクスになれるだろう」ってw
(つづき)
>しかし実は、マルクス自身は「分配の平等」を主張したことは一度もない。それどころか、彼は『ゴータ綱領批判』でこう主張しているのだ:権利とは、その本性上、同じ基準を適用するということにおいてのみ成り立ちうる。しかし不平等な諸個人は、同じ基準によって測定できるが、それはただ彼らを同じ視点のもとにおき、ある特定の側面からだけとらえる限りでのことである。[・・・]これらの欠点のすべてを避けるためには、権利は平等である代わりに、むしろ不平等でなければならない。
マルクスは「平等の権利」や「公正な分配」などの言葉を「時代遅れの決まり文句のがらくた」と決めつけ、政府が所得再分配に介入すべきだとする社会民主党の綱領を「生産様式を変えないでその結果だけを変えようとするごまかし」と激しく批判した。これはリバタリアン対コミュニタリアンの図式でいえば、ノージックよりも右(左?)のリバタリアンであり、アナーキズムに近い。
・・・いやいやセンセイ(@∀@)本当に『ゴータ綱領批判』をお読みになったのでしょうかw
それともソースは2ちゃんねるのコピペなんでしょうか?
>「ある労働者は結婚しているが,他の労働者は結婚していないとか,一方の者は他方の者よりも子供が多い等々。したがつて,同等の労働を行い,それゆえ社会的消費元本に同等の持ち分を有する場合でも,一方の者が他方の者よりも事実上多く受け取り,一方の者が他方の者よりも豊かであるなど。これらの欠陥のすべてを避けるためには,権利は平等であるかわりに,むしろ不平等でなければならないであろう。」
『ゴータ綱領批判』
・・・これはつまり「扶養家族などの個々人の事情が異なるのに、同じ労働力に対して同じ賃金を渡すという『形式的な平等』だけでは真に平等とはいえない。」ってことじゃないんですかあああああああ(@∀@)
つまり(賃金支払いにおける)形式的平等と、(必要充足における)実質的不平等が同時に存在することへの問題意識ですよね。つまり、社会が生み出した富が、必要とされる人々にちゃんと届く、ということを重視しているわけで、これはあなたにしてみれば究極の「分配の平等」ということにはならないんですかね?(@∀@)
まーたぶん池田センセイが「分配の平等」と言うときには、「賃金支払いにおける(形式的)平等」しか問題にしていないんですが、マルクスは社会全体における富の分配を問題にしているわけです。だから池田センセイの立論にもソモソモのミスマッチがあるともいえます。
▼マルクスとセンの不平等論 新村 聡(岡山大学)
http://jshet.net/old///conference/70th/70paper/03niimura.PDF
>・・・資本主義においても必要に応じた分配が部分的に存在することをマルクスは否定していない。上述のように,マルクスは共産主義第1段階における分配のさまざまな「控除」分に言及しているが,そのいずれもが必要に応じて支出または分配される費用・所得である。とくに「労働不能な者などのための,要するに今日のいわゆる公的な貧民救済にあてるための元本」という表現が示しているように,マルクスは必要に応じた分配が「公的な貧民救済」として資本主義にも存在することをはつきりと認識していた。必要に応じた分配(今日の社会保障給付)は,資本主義および共産主義第1・第2段階のいずれの社会にも存在するものなのである。この必要に応じた分配に注目したのがセンであった。・・・
>センは,マルクスが,所得分配の分析において「功績(desert)に応じた分配の原理」(その1つが「労働原理(works principle)」)と「必要(needs)に応じた分配の原理」を明瞭に区別したこと,マルクス経済学で重要な役割を果たしてきた「搾取」概念が「功績に応じた分配の原理」に基づいているにもかかわらず,マルクスは「必要原理(needs principle)が究極的には優先されるべきことを承認していた」(Sen&Foster[1997]:87-88,訳,101)と指摘している。またセンは,「必要原理」が将来の共産主義における分配の原理であるばかりでなく,資本主義における医療・教育・社会保障・住宅などの社会サービスの原理,つまり福祉国家の原理であることも述べている(Sen&Foster[1997]:95,foot note 19,,訳109)。
・・・・・・池田センセイが「マルクス自身は『分配の平等』を主張したことは一度もない」とか主張するのはご自由ですが、ぼくらにとって必要なのは事実です。学生時代に古典派からマルクス、制度学派やシュンペーターやコースやセンあたりを斜め読みしただけの私でも、センセイのおっしゃることにはちょっと首をひねってしまいます。つまり、あまりにも基本的な事実認識の錯誤があるのでは、と。
もっとも、「菅直人にマルクス主義の影響が」とまで口走るようになった池田センセイですから、もう事実がどうとかどうでもよくなっていらっしゃるのかもしれません(@∀@)・・・
かつてはシッカリしていた学者の先生方が、悲しいことに、お歳をめされてだんだんモウロウとなってゆかれる事例はたくさん見てきました。そうでない方もいらっしゃいますが・・・
どうぞ池田センセイ、日々を健やかにお過ごしください。
※ひょっとしたら池田センセイはマルクス主義者で、マルクスを読む人を増やそうとしてこんなことを言っているのではないか、という陰謀論めいた妄想が脳裏をよぎりましたが、ま、妄想でしょうねえ・・・(@∀@)