※いつもながら半月城氏の資料収集・提示能力には感心するしかない。
竹島厨のみなさんは感情論以外の反論をしてみてください(@∀@)
もちろんソースつきでねw できるもんなら。
▼[AML 0931] 週刊新潮の竹島=独島記事を批判する<以下引用>
半月城です。
『週刊新潮』には驚かされます。記事<「竹島」WARS!> において、小見出しに
<竹島は「日本の領土」という決定的証拠の「古文書」>と仰々しくあるので、話半
分にしてもさぞかし有力な証拠の古文書が出てきたのかなと期待していました。
ところがどうでしょうか。「決定的証拠」の古文書とは大谷家の「竹島渡海由来
記 抜書控」のみでした。この文書は、漁猟のために竹島(今日の鬱陵島)へ渡海し
ていた大谷九右衛門が書いたもので、その内容は信頼性に欠け、とうてい「決定的証
拠」になるような代物ではありません。実際、その内容ときたら、大谷家は江戸幕府から竹島を「拝領」したとか、さも
領主になったかのような虚言を弄しており、信憑性がありません。史実は、大谷家と
村川家が鳥取藩を通じて幕府から竹島(鬱陵島)への渡海免許をもらったにすぎませ
ん。
当時は町人が幕府から領地を拝領できるはずもありませんし、それを裏づける資
料などもちろんありません。そんな誇張に満ちた大谷家の文書を引用して同誌はこう
記しました。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『週刊新潮』(05.3.31)
江戸時代初期、日本では竹島を松島、鬱陵島を竹島と呼んでいた。「竹島渡海由
来記 抜書控」という古文書は、元和4年(1618年)以降、伯耆藩(鳥取)の大谷・村川
両氏が江戸幕府から両島を拝領し、鮑、アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行ってい
たことが記されている。
この古文書に加え、1724年の古地図(伯耆藩差出 竹島図)などを収めた『島根
県竹島の新研究』という書物が昭和40年に刊行されていた。著者は元島根県職員の田
村清三郎氏で、昭和43年に54歳で他界した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−日本の古文書に関する説明はたったこれだけです。そこには日本政府が日本領の
根拠にしている古文書すら登場しません。新潮社にとってもそれらの古文書は根拠が
薄く、無用の長物なのでしょうか。
ともかく「竹島渡海由来記 抜書控」のみを「決定的証拠」とセンセーショナル
に書く週刊誌の商業主義にはあきれるばかりです。しかも、上記の記事は歴史にうとい人が書いたようで、文中に「伯耆藩」とあり
ますが、江戸時代に伯耆国はあっても「伯耆藩」は存在しませんでした。これを見て
も、書き手は竹島=独島問題をほとんど理解していないのが赤裸々です。
記事はそんなレベルなので、編集者が「竹島渡海由来記 抜書控」の史料価値を
わからないのも無理はありません。その史料は領有権論争にはほとんど役立たず、そ
のため日本政府はその史料を知っていても、かつて韓国との竹島=独島論争において
はそれを引用すらしませんでした。とても「決定的証拠」にはなりえません。
その史料を、単に元禄時代までに大谷家などが松島(竹島=独島)で経済活動を
行っていた証拠とするのならともかく、これは「固有領土」の証拠にはほど遠い、箸
にも棒にもかからない古文書です。つぎに、記事は書かれていることも重要ですが、何が書かれていないのかも時に
は重要です。特に竹島=独島問題の場合、多くの人は自分の結論に不利になるような
重要史料を意図的に無視しがちです。
『週刊新潮』の記事もそうした観点から見る必要があります。記事は大谷家などの
経済活動がその後どうなったのか記していませんが、そこに竹島=独島問題の本質が
隠されています。記事がそれを書くと「日本の領土」説はあやしくなりそうなので、
週刊誌では取りあげなかったのでしょうか。それを具体的にみることにします。元禄時代、鬱陵島で日朝の漁民は二度はち合わせしましたが、それが機になり、
日朝間で「竹島一件」とよばれる外交交渉が行われました。その経過を内藤正中氏は
こう記しました。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
3.松島は因幡 伯耆附属には無御座候
無人島であると思い込んでいた竹島(鬱陵島)で、初めて朝鮮人に出会うのは
1692年(元禄5)である。この年は53人が来ていたが、日本側は21人の少数であった
ので争うことはしないで、朝鮮人が作っていた串鮑のほか、笠、網頭巾、こうじ味噌
を持ち帰って藩庁に届け出た。
江戸の藩邸から幕府に対処方法を紹介したところ、すでに朝鮮人が退去している
とすれば、「何の構もこれなく」という回答であった。翌1693年、40人の朝鮮人が来ていた。そのなかの2人を捕えて米子に連行した。
安龍福と朴於屯の両名で、米子で2か月にわたる取調べの後、幕府の指示で長崎奉行
所に送られ、対馬藩により帰国させた。ついでに幕府は、対馬藩に命じて竹島は日本
領であるから朝鮮人は出漁しないよう禁止措置をとることを朝鮮国に要請させた。
この時 対馬藩が朝鮮王朝に宛てた文書には「本国竹島」と記して、日本領土の
島であるという認識を示していた。また対馬藩の『朝鮮通交大紀』にも、1693年に朝
鮮人が「我隠州竹島に来り」と、竹島が鳥取藩に所属するということを表明してい
る。これに対する朝鮮側は、「倭人 所謂(いうところの)竹島、即 我国鬱陵島」
と、一島二名であるといって朝鮮領であることを主張した。
「竹島一件」といわれている日朝間の外交交渉は、釜山の倭館を舞台に3年間つづ
けられた。そして1696年(元禄9)1月28日に、幕府が老中4名の連署でもって、「向
後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」と、鳥取藩主に竹島渡航禁止令を
達したのである。この達は、たしかに竹島への渡海を禁止しただけである。このことから、幕府は
竹島の領有権を放棄したのではないという説もあるが、3年間にわたる日韓外交交渉
が、竹島の領有権をめぐるものであった以上、そうした説は無意味である。竹島が朝
鮮領の鬱陵島であることを幕府も認めることによって、竹島一件は決着したのであ
る。
その場合、松島(現竹島)はどうであったかが残る。しかし、もともと松島につ
いては、竹島に附属する島という理解で特段の取扱いはしてこなかった。そうである
以上、松島について言及する必要もなかったのである。さらに幕府の決定に重大な影響を与えたと思われる鳥取藩の1695年(元禄8)12
月25日付の文書がある。これは、前日の24日に幕府老中 阿部豊後守からの質問に対
する鳥取藩の回答書である。
幕府から鳥取藩への質問は7か条で、その第1に「因州 伯州え付候 竹島はいつ
の此より両国の附属候哉、先祖領地 被下候以前よりの儀 候哉」とあり、幕府として
は、竹島が因幡 伯耆を支配する池田藩に所属する島と考えていたことがわかる。し
たがって、いつから因伯の領地になったかと問いかけるのである。これに対する鳥取藩の回答は、「竹島は因幡 伯耆附属には無御座候」であっ
た。
さらに第7項には、「竹島の外 両国え附属の島 有之候哉、並是又 漁採に両国の
者 参候哉」との質問がある。これに対する鳥取藩の回答では、「竹島 松島其外 両
国之附属の島 無御座候事」と、竹島とともに松島についても、因伯両国に附属する
ものでないことを明言した。
その結果、幕府は竹島が朝鮮領の鬱陵島であることを認めて、日本人の竹島渡海
を禁止することになるのであるが、ここでの決定について 30年後の1724年(享保9)
に鳥取藩がまとめた「竹島渡海禁止 並 渡海沿革」には、次のように記している。
・・・(省略)・・・
なお、川上健三も竹島・松島が鳥取藩所属でないとしていることは「けだし当
然」といっている。ただしその理由とするところは、竹島渡海事業が官許の公務であ
り、鳥取藩が直接関係していなかったためであるというが(川上前掲書,P84)、これ
は事実ではない。
渡海免許も渡海禁止も幕府から鳥取藩主に出されており、鳥取藩としても毎年の
渡海にあたって米や鉄砲の貸付をしていたのであるから、幕府直轄で鳥取藩は関係が
なかったから、竹島・松島は因伯付属の島ではないと回答したのは「当然」とするわ
けにはゆかない。鳥取藩領と思われていた竹島、そして松島について、鳥取藩としては自らに附属
する島ではないといったのである。
領主なき土地はないのが封建社会の原則であるから、日本領土ではないといった
ことになる。下條正男の近著『竹島は日韓どちらのものか』には、このことについて
の言及がない(注1)。下條正男氏の近著に鳥取藩の回答書が記されていないのは、けだし当然かも知れ
ません。その史料からは竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)は日本の領土でないとい
う結論がおのずから導かれるので、何としてでも竹島=独島を日本領にしたい一念の
同氏は、それを無視せざるをえなかったのでしょうか。
この鳥取藩の回答書こそ、竹島=独島が日本の領土ではないとする「決定的証
拠」ではないでしょうか。『週刊新潮』(05.3.31)P33
> 田村氏は遺作の中で韓国側の主張を次々と論破している。
先ず、于山島または三峯島と呼ばれていたのは竹島ではなく、鬱陵島だったと指摘し
ている。それは『三国史記』(1145年)など多くの文献が于山国とは鬱陵島のことで
あり、三峯島も鬱陵島の別称だと明記しているからだという。15世紀、朝鮮の正史である『世宗実録』地理志に東海の島が江原道蔚珍県条にこ
う記されました(注2)。
「于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天
候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に鬱陵島と
もいう。その地の大きさは百里である(注3)」朝鮮王朝はおおむね鬱陵島(武陵島)と于山島をこのように理解していたのです
が、古く日本の江戸時代以前は、東海の絶海にある島が本当に二島なのか、また于山
島はどこにあるのかなど、空島政策をとっていたことも手伝って、必ずしも十分に把
握をしておらず、于山島やうわさの三峯島探索などをめぐってしばしば混乱しまし
た。こうした問題をクリアーにしたのが「輿地志」やそれを引用した文献でした。現
在「輿地志」は現存しませんが、その引用文が下記のような史書に残されました。
(1)『疆界考』(1756)
「按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 鬱陵は 本一島 しかるに諸図志を考え
るに
二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり(注
4)」(2)『東国文献備考』「輿地考」(1770)
「輿地志がいうには 鬱陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの
松島
なり(注5)」このように、東海には鬱陵島と于山島の二島があり、于山島は日本でいう松島で
あるとの認識が次第に確立しましたが、その背景には上に述べたた安龍福の言動が大
きな影響を与えていました。
安は 1693年「竹島一件」の際、鬱陵島において日朝漁民が二度目にはち合わせ
したとき、同島から日本へ連行されましたが、その時、かれは竹島=独島を経て鳥取
藩へ来ました(注6)。
竹島=独島を実見し、それが日本でいう松島であることを理解している安龍福
は、1696年、今度はみずから鳥取藩へ抗議活動にやって来てきました。その時、かれ
は船に「朝鬱両島 監税将臣 安同知 騎」と墨書した旗をかかげました。
これは日本では「朝鬱両島ハ 鬱陵島 日本ニテ是ヲ竹島ト称ス 子山島 日本ニテ
松島ト呼フ」と理解されました(注7)。子山島は于山島の書き間違いとされます。安の訴えは竹島一件をめぐる日朝の外交交渉自体にほとんど影響を与えませんで
したが、安の言動は結果的に今日の竹島=独島問題に大きな影響を与えました。それ
は、日本でいう当時の竹島は朝鮮の鬱陵島であり、松島は于山島であり、ともに朝鮮
領という認識を日本および朝鮮政府に定着させました。
朝鮮では、于山島は日本でいう松島であるとの認識が官撰書である『万機要
覧』(1808)、『増補文献備考』(1908)などに引き継がれました(注8)。日本では「竹島一件」の結果は、明治時代になって再確認されました。内務省か
ら鬱陵島と竹島=独島の取り扱い伺が出されたとき、国家の最高機関たる太政官は、
竹島外一島、すなわち鬱陵島と竹島=独島は本邦に関係なしとする指令を1877年(明
治10)に通達しました(注9)。このとき、明治政府は竹島=独島を放棄したことに
なります。
こうした竹島=独島の認識は内務省や太政官のみならず、外務省でも同様でし
た。外国の誤った地図の影響で外務省内に松島・竹島について島名の混乱が起きたと
き、公信局長の田辺太一は、松島が于山島であると正しく理解して下記のように記し
ました。「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島
ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有トセサルヲ約
シ載テ両国ノ史ニ在リ」このように明治政府の関連機関は、竹島=独島は朝鮮領であると認識していまし
たが、日露戦争が起きるや、帝国主義的施策が台頭しました。戦争でロシアの艦隊を
監視するため、竹島=独島に軍事目的の望楼を建てる必要が生じたからでした。
政府は、漁師・中井養三郎から出された「リヤンコ島(竹島=独島)貸下願」を
機に、竹島=独島を「無主地」であるとこじつけ、閣議で同島を竹島と命名し、つい
に領土編入を決定しました。
この時、朝鮮との事前協議など一切なく、また官報による公示もなく、こっそり
行われました。公表は島根県告示という形をとりました。これでは、朝鮮が気づくの
はとうてい無理なのはいうまでもありません。『週刊新潮』(05.3.31)P33
> この(田村氏の)労作には日本が竹島=独島の領有に関し、国際法の要求する先
占の要件を満たしていることが詳細に記載されているのだ。当時の国際法は「万国公法」と呼ばれ、帝国主義国家間の植民地獲得競争におけ
るルールが基本であり、侵略戦争が公然と認められているなど理不尽なものでした。
そうした「狼どもの国際法」にたとえ適合していても、それは時には不当なものであ
り、いずれ清算されなければなりません。
竹島の場合、たとえそうした「狼どもの国際法」に照らしても、竹島=独島の領
土編入は適法ではありません。慣習法である万国公法では領土先占の要件として、そ
の地が「無主地」であることが必要条件ですが、竹島=独島の場合、日本政府は朝鮮
領であることを知りながら、強いて「無主地」であると強弁して領土編入しました。
これは「狼どもの国際法」に照らしてすら違法な略奪といえます。ここで注目すべきは、日本は竹島=独島を「無主地」とこじつけたことです。こ
れはとりもなおさず、竹島=独島を「日本の固有領土」と考えていなかったことにな
るので特筆に値します。上記のような歴史的経緯からすれば当然の帰結です。
それにもかかわらず、日本の外務省が「竹島は日本の固有領土」と繰りかえして
いるのはコッケイです。内藤氏も「固有領土論は根拠が薄いというのが実態(注
10)」と批判しました。『週刊新潮』(05.3.31)P33
> 外交評論家の田久保忠衛氏はこう語る。
「田村氏の主張が正しいことは、日本が提議した国際司法裁判所への付託を韓国が
拒否した一事でも明らか。韓国には自国領だと言えるだけの証拠がないのです」
妄言は韓国の方だった。何とも貧弱な論理展開です。外交評論家を自称する田久保氏は、竹島=独島に関
する韓国の主張をほとんど知らないようです。上にその一端を書いたように、韓国領
だといえる根拠はいくらでもあるし、また日本の「固有領土」ではないとする根拠も
いくらでもあります。
韓国にすれば、自国領として確信のある竹島=独島をあえて裁判沙汰にして、両
国国民の民族的対立を先鋭化するような愚を避けようとするのが当然です。長くなりましたが、以上のように『週刊新潮』の記事はあまりにも的はずれで我
田引水的であり、竹島=独島問題の本質にはまったくふれていません。真実を報道す
る使命をもつジャーナリズムの本義にはずれた、まったくお粗末な記事というしかあ
りません。(注1)内藤正中「竹島(独島)問題の問題点」『北東アジア文化研究』第20号
,2004,P7、鳥取短期大学発行
(注2)半月城通信<『世宗実録 地理志』と于山島>
http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.679
(注3)『世宗実録 地理志』
「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一
云鬱陵島 地方百里」
原文には句読点やスペースなどは一切ありません。以下同様。
(注4)申景濬『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島
「按 輿地志云 一説于山鬱陵本一島 而考諸圖志二島也 一則其所謂松島 而蓋二島
倶是
于山國也」
(注5)申景濬『増補文献備考』巻之三十一「輿地考十九」蔚珍古縣浦条
「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注6)(注)塚本孝「竹島領有権問題の経緯」『調査と情報』第289号、国立国会図
書館,1996
(注7)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000,P100
(注8)半月城通信<下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説>
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785
(注9)半月城の論文「日本の竹島=独島放棄と領土編入」
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.698
(注10)東京新聞<対論『竹島』はどちらのもの>
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050317/mng_____tokuho__000.shtml