速水螺旋人さんの連載が『月刊comicリュウ』で始まったよ(@∀@)
▼pixivに投稿しました 「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」 http://p.tl/i/13974911 #pixivtweet リュウで漫画描きますということでそのお知らせですよ。よろしくー。
http://twitter.com/RASENJIN/statuses/27745542081
・・・独ソ戦に参戦してる「魔女」・・・というかバーバ・ヤガのお姉ちゃんの話(@∀@)ゆるくて可愛い大祖国戦争。
軍事とオカルトの融合ネタといえば、滝沢聖峰(大日本帝国)や西川魯介(ナチス)あたりが有名どころだが(ストライクパンツはオカルトとは認めないw)、バーバ・ヤガと独ソ戦のソ連軍の組み合わせはたぶんはじめてだと思う。ポイントは「えんえん歩く」というところか。これから毎月たのしみだ!
今週のアエラでちょっと面白かった記事
・・・2004年(小泉政権時代)、尖閣に上陸した中国人「活動家」7人が強制送還(送検なし)となった事態の舞台裏について。
http://d.hatena.ne.jp/claw/20100929#p1
アエラは当時の担当官僚から取材して、自民党時代に中国政府との事実上の密約が形成され、尖閣周辺に中国漁船などが侵入した場合にも国外追放にとどめる方針が政府内に存在したことを示す。これが政権交代によって民主党政権に引き継がれなかったことが先日のゴタゴタの原因だという。
田中宇の主張が裏付けられたということか。
http://d.hatena.ne.jp/claw/20100925#p1
人間を幸福にしない大国主義・・・中国と日本におけるほんとうの敵
・・・それにしても山崎浩一にはがっかりだ。昔はけっこう面白かった彼のコラムだが、最近はまるで『SPA!』の巻頭コラムなみにしょうもない(@∀@)
なにがしょうもないって、今週の『週刊アスキー』の彼の連載コラム「今週のデジゴト」だ。かいつまんでいえば「中国大使館に尖閣諸島問題で抗議する2500人ものデモ隊がつめかけたのに、日本のマスゴミはぜんぜん報道しなくてけしからん! 読売と産経がチマチマ報道したくらい。こんな連中はネットの時代には不要、いずれ消えていく運命に間違いない!」という内容。
・・・いったいなんでこの人、お金をもらってわざわざ2ちゃんねるレベルの文章を書いているんだろう?(@∀@)
いや、2ちゃんねるの方が山崎浩一よりは上かもしれない。少なくとも2ちゃんねるには、その「2500人のデモ隊」の主催者が誰であるかも書き込まれている。誰かって?・・・「大日本帝国は侵略国家ではなかった!」と口ばしって更迭された田母神センセイや、放漫経営でスカパーでの放送枠すら満足に維持できなくなった自称「放送局」・ちゃんねる桜の社長や、南京事件を扱ったマンガの内容が気に食わないからって議員バッジふりかざして集英社を恫喝した地方議員の先生だよ!(@∀@)
http://www.ganbare-nippon.net/office.html
・・・で、気になるのは「なぜ山崎浩一氏がそういう事実をいっさいコラムに書いていないのか」ってことだ。
マスコミに「中国大使館前のデモについて報道しろよ」というのは、それは別に何の問題もない。だがもちろんそれだけでは報道としては不十分で、「その主催者が誰なのかについても報道しろよ」とも主張すべきではないのだろうか。
・・・実に迷惑なものは大国主義である。「われこそは大国でござい」と他民族や他国を見下したり踏みつけたりすることを正当化する発想は不幸のみなもとだ。それはもちろん、現在の中国政府において見られる態度だ。そしてまた、かつての大日本帝国においても見られたことを忘れてはならない。いずれも人間を不幸にする。
・・・田母神センセイや日本会議(国家神道系カルト)の地方議員、そしてちゃんねる桜の社長といったみなさんが、大日本帝国をいかに敬愛しているかは、山崎氏のような聡明な人物であれば知らないはずはない。
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その大日本帝国の価値観たるや、国民主権や平和主義や基本的人権といった日本国の国是とは真逆のシロモノであって、なぜ山崎氏がそういう「カビのはえた大国主義をかかげる皆さん」のデモを(事実を隠してまで)ヨイショするのか、俺には正直よくわからないw
・・・それに山崎氏は大手商業メディアを「マスゴミ」とののしるが、この人、『AERA』で連載を持ってるんだよねw
テレビや新聞が彼の言うように「マスゴミ」だとしたら、2ちゃんねる以下の内容を「マスゴミ」に金をもらって書き散らすコラムニストは何と呼ぶべきだろう。「マスゴミ」から「マス」を取ったものかな(@∀@)
・・・現在の中国の大国主義も、大日本帝国流の大国主義も、人間を幸福にはしない。
▼成都デモ 「同じ中国人なのにやめて」[10/18]
>中国四川省成都市の大規模反日デモから一夜明けた17日、営業を再開したイトーヨーカ堂春熙(しゅんき)店周辺には、特殊警察官や武装警察官1000人以上が配備され、週末の歩行者天国は異様な雰囲気に包まれた。
>襲撃を受けた小さな飲食店にもデモのつめ跡が残された。
>「同じ中国人じゃないの! お願いだからやめて!」。妊娠4カ月の楊芳さん(29)は16日、 副社長を務める日本料理店「北海道」の前で、デモ隊に向かって両手を広げ、泣きながら懇願した。
>しかし「日本料理店なんか壊してしまえ!」と叫びながら、 なだれのように押し寄せてきたデモ隊の波から逃げるのがやっと。なすすべがなかった。 ・・・
>12年前、縫製の技術研修生として愛知県一宮市に3年間暮らした際に日本語を覚えた。
>帰国後「故郷の人たちに日本の食文化を紹介できれば」と、兄が立ち上げた日本料理店を手伝うことに。
>「中国人はみな、愛国心は持っている。でも、あそこまで暴徒化するなんて…」と、同胞の暴走が信じられない。・・・
>近くにある日本料理店「八千代」では、ガラスや冷蔵庫などが破壊され、破片が足の踏み場もないほどに散乱。
>同店の中国人関係者は「おれたちが何の悪いことをしたっていうんだ」とぼうぜんと話した。(成都・朝田憲祐)
http://www.chunichi.co.jp/article/world/news/CK2010101802000002.html
▼
※子供向けに書かれた伝記。杉原夫人の幸子さんによる。
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満州国外交部事務官の職を辞した件について、杉原本人は「日本人による中国人への差別が嫌だった」と語っていたという。
満州や中国大陸からの引き揚げでどれほどの日本人が犠牲になったかは言うまでもない。
・・・ところで、これは一つの仮説ではあるが、2ちゃんねるの自称「愛国者」の中にも、「打撃を受けた大国主義」とでもいうべきものがあるのではないだろうか。「こんなにも大国になったはずの偉大な日本、その国民である俺も偉大な存在である。なのに日本を大国としてふさわしく扱わない奴らがいるが、それは偉大な俺を認めないのも同然であるからけしからん!」といったものだ。
で、俺としては、おまえらの「大国主義=日本は大国だから(俺はその国民だから)尊敬しろ、という発想」自体を疑えよ(@∀@)と思うわけです。
「日本は大国だから」と思い込んでいるから、なにかこう中国政府とかに理不尽な態度を取られると、「大国である日本=俺様に何をするか!」と激昂しちゃう。
そうじゃないだろwと。敗戦から60年以上たっても「占領軍」に駐留され続け、自分の国の憲法すら尊重しない、そんな国のどこが大国だと。(@∀@) 自国の政治家にすら国民がナメられているような国を、他の国がナメてかかるのはむしろ当然とも言えるんじゃないかな。
むしろ「日本は小国、俺はその住人の一人」くらいに考えていたほうが、大国の跋扈する世界でも冷静に生き延びる方法をリアルに考えられるのではないかと思うけどね。世界を見渡せば、そんな国はいっぱいあるでしょう。
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それなしで生きてはいけず、それがあっては本当に生きられない 〜 今日マチ子『cocoon』を読む〜 その2
前回http://d.hatena.ne.jp/claw/20101019#p4の続き。
・・・過酷な状況におかれた人間が生き延びるための手段として、時に「妄想」が用いられる。たとえば手塚治虫が、たとえば小林信彦が、戦時下の少年時代を絶望の一歩手前で生き延びるために、とりとめのない空想や妄想を支えとした。
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アウシュビッツをはじめとするユダヤ人の強制収容所において、最後まで生き残った者には、脱出の「希望」を失わなかった人々が多かったともいう。おそらく彼らの「希望」は、周囲の人間には妄想と区別することはできなかっただろう・・・
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この映画も「妄想もいいかげんにしろよ(@∀@)」と言いたくなるストーリーではあるが、それでもなお、そのいわんとすることはよくわかるのだ。
・・・そんな昔の話はおいといて、今日マチ子の『cocoon』の話をしよう。
しかしながら妄想というものは、本当に過酷な状況を生き延びる手段として適当なものなのか。たとえば「大日本帝国は天皇を中心とする神の国であるから、決して負けるはずがない」といった妄想は、国民が生き延びる上では何の助けにもならなかったし、むしろそうした妄想から自由であった人間のほうが戦場での生存確率は高かったであろう。実際、「神国日本」という妄想のおかげで、結果的に大日本帝国は滅亡してしまう。ここで大事なポイントは、「その妄想はいったい誰のものか」ということではないか。大日本帝国にまつわる妄想などというものは、しょせん「その時代において与えられた環境」の一部にしかすぎないのであって、そんなものに依拠しているかぎりは、過酷な環境の裏をかいて生き延びることはできないどころか、ただ流され消えてゆくだけだ。むしろ「与えられた環境の外へ外へとハミ出していく妄想」の中にこそ、生き延びるための可能性もまた存在するのではないのか。たとえば地球の生物史を見ても、生物多様性が環境変動に対する生物圏の持続可能性を生み出してきたようなもので。
・・・そんな大昔の話はおいといて、今日マチ子の『cocoon』の話をしよう。
今日マチ子のマンガ『cocoon』は、「沖縄戦の女子学生たち」という題材を足がかりにしている。してはいるが、その前に「今日マチ子の作品」である、ということを特筆しておきたい。「今日マチ子の作品」はいうなれば常に「毒入りの甘いミルク」で、主成分は少女のかたちをした妄想であり、だから『cocoon』という作品もその同じ流れの中から浮上したものではあるのだ。あるのだが、それでいながらこれまでの「今日マチ子」作品とは決定的に次元の違うものがそこにはある、ということを特筆しておきたい。『cocoon』はいうなれば「少女の妄想はどこから来るのか」に気づいてしまった元・少女の夢日記で、それに気づくための触媒となったのが「沖縄戦の女子学生たち」であった、ということではないだろうか。だから『cocoon』は、個々のエピソードこそは現実の類似の出来事に基づくとしても、これまでにフィクションやノンフィクションで描かれたいかなる「沖縄戦の女子学生たち」とも異なるし、同時にこれまでに描かれた「今日マチ子の作品」とも異なっている。それは妄想か? もちろんそうだ。しかしその妄想は何から生まれるのか。現実という故郷からやってきたものではないのか。現実がなければ妄想もまた生まれはしない。それゆえ『cocoon』の冒頭には次の言葉がかかげられている。
>この物語は、
>実在するテーマを
>題材とした
>フィクションです
▼沖縄県女子師範学校(女師)+ 沖縄県立第一高等女学校(一高女)の女子学徒隊
(ひめゆり学徒隊、俗にいう「ひめゆり部隊」)についての史実
・1945年3月23日 両校の女子生徒222人+引率教師18名 合計240名の学徒隊が沖縄陸軍病院の看護要員として動員される。
(この間に米軍が上陸)
・1945年6月18日 「解散命令」。
・1945年6月19日以降 教師・学徒240人のうち136人死亡。
そのうち教師の平良松四郎と9名の生徒は荒崎海岸で集団自決。
・・・いずれにせよ、『cocoon』の表現とテーマは、今までの「今日マチ子の作品」を突破した。また、「沖縄戦の女子学生たち」を見るにあたっての、新しい視点を提供した、かもしれない。こうの史代が『夕凪の街 桜の国』で1950年代と現代を地続きにしてしまったように、「沖縄戦の女子学生たち」は『cocoon』によって21世紀との新しい接触面を得る。
・・・まずは本を手に取り、表紙を見てみよう。一輪の引きちぎられた?百合の花を持ち、モンペや制服にピンク色やオレンジ色の染みをつけた女学生が、青空を背にこちらを見ている。百合はテッポウユリであろうし、背景に見えるのは赤いハイビスカス、燃えるようなオレンジ色はデイゴの花だろう。その鮮やかさとくらべて、女学生の存在感は非常にたよりない。輪郭さえきちんと閉じられてはおらず、なんだかあいまいな表情を浮かべている。この主人公の「存在のはっきりしなさ」というのは、実は表紙から物語の最後まで一貫している。(そういえば、このマンガでは登場人物たちのフルネームさえ表示されない)。表紙の主人公の服を染めているのが花の色であるのか、それとも(おそらくはそうだろうが)血しぶきであるのかすら、定かではない。どこからか風が吹いていることは、草木や髪のそよぎでわかるのだが。
・・・この表紙を見ただけでは、本の中にいかなる悪夢が綴じこまれているかは、まったく明らかにはされていない。もちろん、それはそれでいい。本はまず、読まれなければ存在する価値がないのだから。
(つづく)