▲『直立不動の少年』(後述)
▼最新イラク取材 山本美香さんの眼 (東京新聞)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060203/mng_____tokuho__000.shtml
http://www.asyura2.com/0601/war78/msg/129.html
> 「日本がイラク戦争に参加したことを、イラク人は分かっている。だから責任を持ってまず後始末をし、国造りをサポートしないといけない。このままではあまり評価されない。単に『プロジェクトをやりました、帰ります』では、米国との関係で自衛隊を派遣するために復興支援という名目を利用したんだと思われても仕方がない」
▼ 「米中戦争」の危険は大幅に減少=米統参議長 [AFP=時事]
>http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1685744/detail?rd
>ペース米統合参謀本部議長(写真)は3日、ソウルの米軍基地で演説し、米国と中国の経済関係が強くなったのに伴い、両国が戦火を交える危険は大幅に減ったとの見方を明らかにした。
>ペース議長はこの中で、「中国に関しては将来を楽観している。両国が共有する事柄の方が共有していない事よりはるかに多い」と指摘した。
・・・
>議長は、北朝鮮の意図を正確に把握するのは難しいとしながらも、「われわれは今日、北朝鮮によるいかなる攻勢も打破する能力を完全に備えており、今後もその能力を維持する」と強調した。
・・・ですってよ奥さん(@∀@)
・・・防衛施設庁の官製談合関連ニュースが底なしに沸いてくるので、まとめ切れません。(@∀@)そのうちに、また。
▼『直立不動の少年』+米従軍カメラマン、ジョー・オダネルのコメント
http://www.asyura2.com/0510/idletalk16/msg/890.html
<佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
>・・・10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。
>・・・しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも足は裸足です。少年は焼き場のふちまでくると硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
>・・・少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子がすでに死んでいることに初めて気づいたのです。
(朝日新聞社写真展コメントより抜粋)
・・・1945年8月19日、長崎でのこと。
・・・長崎新聞は独自の戦争と平和に関連するコンテンツを提供している。
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/
このブログのトップにリンクを張っておくので、たまにはのぞいてみてください。
▼爆心地付近の“防空壕”どう残す 県と長崎市、形状に腐心
URL:http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2006/kiji/01/2201.html
>戦時中の防空壕(ごう)の封鎖工事を進める長崎市は、爆心地近くの平和公園(松山町)下の壕は形状を損なわず中が見えるようフェンスなどを設置する工事に近く入る。一方、被爆直後、長崎電鉄の乗務員が逃げ込んだといわれる城栄町の県管理の防空壕は、安全上の理由で壕の形状を残し封鎖された。行政側の対応はさまざまだが、被爆者に共通するのは「防空壕は被爆の証人。できる限り保存を」という切なる願いだ。
>被爆者で「長崎の証言の会」の内田伯代表委員は「爆心直下でありながら、防空壕に入っていて生き残った人もいれば、逃げ込んで息絶えた人もいる。まさに被爆の証人。安全策と共存する形で残ることになり、安心した」と語る。
>電鉄OBの被爆者、和田耕一さんは「防空壕の中で電鉄の女子乗務員が大やけどを負い息絶えていた。壕の形が分かるようにしてくれて、感謝したい」とした上で、「当時を語る被爆者が少なくなる中、あの悲惨さを語り継ぐ学びの場として活用するためにも説明板を近くに設置してほしい」と訴える。
・・・しかし、中に入ってこそ理解できる「空気」というものもある。
内部に入れる形での保存こそ望ましいのだが。
▼被爆の惨状リアルに 長崎で証言CD試聴会開く
URL:http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2006/kiji/01/2901.html
>被爆者二百八十四人の証言をCDに収めた音声作品「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」(九枚組、八時間四十分)の試聴会が二十八日、長崎市岡町の長崎被災協会議室であり、市民や高校生約四十人が被爆者の肉声で語られる六十一年前の「あの日」の惨状に耳を傾けた。二十九日も午後一時から午後四時まで開かれる。参加無料。
>作品は、元NBC長崎放送記者の伊藤明彦さん(69)=東京都調布市=が自主制作。伊藤さんが長年収集した被爆者約千人の証言の中から、広島、長崎の被爆前夜から原爆投下、終戦など約一カ月間の様子を抜き出し、「被爆の実相」を再現した。
>「星空のきれいな夜だった」(八月五日夜、広島)
>「太陽がかさを着たように真ん丸に見えた」(八月六日朝、広島原爆投下)
>「目玉が飛び出し、目の中から赤いどろどろしたものが口まで下がっていた」
・・・これは盲点だったかもしれない。『未来への遺言』の筆者もリール式テープで被爆者の証言を記録しているはず。音声・映像記録をどんどんデジタル記録化して普及しておくといいなあ。
▼長崎被災協、第2次運動に参加へ 原爆症認定症集団申請、提訴
URL:http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2006/kiji/01/2801.html
>長崎原爆被災者協議会(長崎被災協、谷口稜曄会長代行)は二十七日、理事会を開き、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が呼び掛けている第二次の原爆症認定集団申請と提訴運動への参加を決めた。現在、全国十二地裁で係争中の第一次訴訟に続き、厳し過ぎる原爆症認定制度の在り方を問いただすのが狙い。
>第一次の集団申請は二〇〇二年七月、集団訴訟は〇三年四月からそれぞれ開始。本県の二十九人を含む全国十七都道府県の百六十八人が提訴している。被団協では一月、第二次の集団申請と訴訟運動の開始を決定。特にがんなどで申請しながら、入市や遠距離被爆のために認定されなかった被爆者の参加を求めていくとしている。
・・・60年たった今でも財政支援によって救済されていない被爆者がいる。
支援の申し出は以下のサイトへ。
▼長崎原爆被災者協議会
http://www1.cncm.ne.jp/~hisaikyo/
・・・HPの更新支援など、できることはいくつかあるはずだ。
▼藤原肇 『小泉純一郎と日本の病理 Koizumi's Zombie Politics』
光文社 2005/10/21
>靖国神社を政治的に使った人物としては、1978年に第6代宮司になった松平永芳(1915-2005)がいる。彼は松平恒雄駐英大使(1877-1949)の長男であり、海軍機関学校を出て海軍に任官し、戦後になって自衛隊を一佐で退官して、宮司になるとA級戦犯の合祀を独断で密かに実行した。この合祀強行を知って激怒した昭和天皇(1901-1989)は、それ以降は大祭への参拝を中止してしまい、皇室と靖国の関係は険悪になっている。