「従軍慰安婦」制度は大日本帝国の軍隊が作った。
▼旧日本軍文書「軍用特殊慰安所は享楽の場所にあらずして、衛生的なる共同便所」 http://www.han.org/a/half-moon/hm028.html#No.207
http://www.han.org/a/half-moon/hm028.html#No.208
▼サンケイ新聞社長、「陸軍経理学校で慰安所の設置要綱を学んだ」
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper02.htm
>「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか
悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が
将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければ
ならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが
『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」
(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)
▼慰安所(当時の呼び方は「ピー屋」)の「女の値段」は皇軍が決めた
>日本の女が、ええと、1円なら、結局、朝鮮が80銭、それから中国は70銭・・・
http://anarchist.seesaa.net/article/14460086.html
▼『正論』2005年1月号 小野田自然塾理事長・小野田寛郎氏による
「私が見た『従軍慰安婦』の正体」
>私は幹部候補生の教育を南昌から三〇キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。
>私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で、「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。
(※従軍慰安婦は商行為である!と主張したつもりが、軍による慰安所管理や「半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた」ということを証言してしまった小野田さんの手記。)